富士宗学要集第一巻
 
袈裟数珠の事
                                  日因上人
 
百八煩悩の事
止五(八十)に五十校計経を引いて云はく若し眼に好色を見る中に陰あり集あり、悪色を見る中に陰あり集あり、平々色を見る中に陰あり集あり、乃至意法に縁ずるも亦是くの如し、一根に三あり三の中に六あり、六根に三十六を具す、三世合すれば百八なり、六十二見、八十八使に歴て各百八なり、当に知るべし挙心動念する浩然として際無し、昏として且つ盲く都へて見覚せず、乃至一々の見に於いて八十八使、百八等を具する上に説くが如し云云。
 
弘五下(廿四廿六)具さに経意を釈する、又大論卅六巻(十一)を引く、六根各三受、三受三塵に対し三世百八と為る、此れ則果報に約して以つて三世を論す、若し諸論の中には復十纏を以つて八十八使に加へて九十八と為し十思惟を加へて一百八に合するなり云云、大論七(九)法界次第上(十六)大蔵法数。
 
日因私に云はく一百八煩悩に二種、一は五十校計経の如く六十二見、八十八使、一々に百八煩悩を具す、二は十纏に八十八を加へて九十八と為し十思惟を加へて百八に合す云云弘五下(廿五六)の意なり、(大蔵法数、要覧、集註)又五十計経と大論と因果不同なり此れ則大乗経の意と小乗経論との異なり。
 
弘決に経を引いて云はく仏王舎に在り十方の菩薩、仏に問ひ上つる、何が故に諸行の因縁不同なる、仏云はく五根及び意識を校計して一切法の本として十方仏智を得と、問ふて云はく何ぞ行道を具足する、謂はく常に根識を守り校計を修せば點の菩薩となる、若し校計を修せざれば癡の菩薩と為る、問ふて云はく何ぞ校計を修せざれば癡の菩薩となり、校計を修せば黠の菩薩と為る、仏、五十の法を以つて答ふ一々の法の中、皆校計と云ふ、一々の法の中に皆百八あり初め尽百八癡、次に尽百八欲、乃至百八真を得て百八尽力を証す、諸菩薩問ふて云はく何ぞ百八なる、
仏言はく所念有つて自ら知らず、心生心滅の中に陰あり集あり癡と為ることを知らず、転して意地に入る亦是くの如く識亦是くの如し是れを意三と為す、好色中色悪色を見て自ら著を知らず自ら滅を知らず、陰あり集あり乃至触亦是くの如し、彼の経は但六根を列する各六、三世の語無しと雖も而を結して百八と云ふ、故に知りぬ是れは刹那に約して三世と為すなり、既に心意識の三を以つて意地の三と為す故に三世を通す、集起を心と名つくと云ふが如く籌量を意と名づけ別知を識と名づく、意三既に爾り故に所依の五根亦爾らしむ、三世、三箇、三十六の故に、故に百八有り、経に又問ふて云はく我れ設し百八癡滅を知る癡と為ん黠とせん、仏言はく未だ黠ならず,諸菩薩言はく何が故に爾るや、仏言はく猶百八癡有り乃至未だ百八尽力を得ず、念々の中六根を離れず刹那三世の故に一々に見る、皆一百八、乃至五十箇、百八煩悩の故に、彼の経に云はく挙心動念して生死尽くる無しと、若し大論に準するに六根各三受あり三受三塵に対す三世を百八と為す、此の則果報に約して以つて三世を論す、若し諸論中復十纏を以つて八十八に加へて九十八と為し十思惟を加へて百八に合す云云(法界次第上十六)。
 
私に云く所詮百八の所立両途なり。
 
問ふ宗祖録外御書の四、戒法門御書中に数珠経に引いて云はく母珠を越ゆべからず過か越法罪なり、数珠は仏の如くせよ云云、他受用御書二冊之れに同し、数珠経に云はく母珠を越え莫過すべからず珠を越ゆる罪千万と云云、答ふ御書には台家の相伝を挙げたり故に本文に合せざるか、然るに御書引文の意は即ち母珠を捨てゝ数を取らざるの失を明す、故に一返の念仏、十の数珠を越ゆる等是れ妄語の罪重き証文を引く、既に母珠仏の如し何ぞ数を取らずして母珠を超越せんや、若し強いて之を執せば則ち菩薩の勝果珠を数えて何ぞ忽に仏母の正珠を捨てんや、故に勢至経を引いて云はく次第を超ゆる者は妄語の罪に因つて当に地獄に堕つべしと云云。
 
問ふ若し爾らば母珠は是れ百八珠の外なり何ぞ母珠を数ふと為んや、答ふ若し爾らば百八の外、四珠の小珠何ぞ唱る数と為るや、会合して曰はく凡そ数珠は是れ三宝を表する故に百八珠は法性の百八珠を以つて百八煩悩及び報障を対治することを表し、四小珠は是れ上行等四大菩薩、常楽我浄の四徳波羅蜜を唱へ顕すことを表するなり、釈迦多宝の二母珠は是れ境智の二法を唱へ顕はすことを表す、若し小の四珠大の母珠を除く人は只是れ法宝のみにして仏宝僧宝なし、何ぞ仏法僧の三宝を表はす数珠と云ふべけんや、然れば先師方の伝法は仏母の宝珠を捨つるに似たる者か、更に詳にせよ。
 
応に知るべし、此れ皆要法寺日大の邪伝を信ずる故に此の過失有る者なり、又上行等の四徳波羅蜜は界外の四顛倒を破して九界の生死を出づることを表する故に、一百八の小珠は界内の見使を破して六道三界の生死を出づる事を表するのみ、当に知るべし二母は本有の妙覚及び修徳本果の妙覚本末究竟等の故に、根本無明結業の惑を破して九界六道の生死を出づるものなり、故に御書十四(卅)但専ら本門寿量の一品に限り出離生死の要法なり云云、又録内卅一(十三)爾前迹門にして猶生死離れ難し本門寿量品に至りて必す生死を離るべし云云。
 
問ふ釈迦は智徳を表し多宝は境徳を表せば二仏各別なりや、答ふ釈尊は境智を具ふ而るに今釈尊は久遠最初の成仏にして顕本に三身有り、多宝は法身を表する故に境を表す是れ且く二義を分つのみ、実は本因の釈迹は最初境智不二の成仏なり、故に自受用報身如来と云ふなり、御書十四釈尊(今日)五百塵点劫の当初(本因名字初心)凡夫(理即)時、我身即地水火風空と知めし(最初成仏)即座に悟りを開き云云、即ち名字十発心乃至五十二位妙覚位に至る是れなり云云。
 
口伝に云はく我れ等事相の衣を懸くる事、三身即一の如来果地円満相仏の色躰なり、円実所談の三諦、一切非三非一の三身相即にして暫くも離るゝ時無し、故に一衣を著すれば三衣全く相離れず万法を一心に惣べ衆途三観に了る、故に袈裟を著する時は、周・法界の性相に一念三千を摂し諸法の円備を顕す、此の身は三因五仏性を事性に顕現し覚躰身に在りて即無作自受用身、果徳仏躰と観すべき相、真言教なり、三部の大曼荼羅なり機深秘之れ有り、戒壇経に云はく三衣は三毒を破すれば則三衣を著すべし、五条は下衣にして貪心を断し七条は中衣にして嗔心を断し大衣は上衣にして癡身を断するなり已上。
 
日因私に云はく此の説天台真言慈覚の謗法の袈裟なり、故に五七九衣を以つて金胎両部に習合し法華開顕の三諦三身に乱同す、堅く之を信用すべからざる者なり、況んや法華の三諦三身は未だ発迹顕本久遠実成の旨を論ぜず、何に況んや久遠本因妙名字、末法下種の薄墨色の袈裟をや、応に知るべし当家の袈裟は唯五条に限るのみ、然るに白色と薄墨色と二色之れを依用す尤も深秘有る者なり。
 
口伝又袈裟相承、大威儀律蔵経に云はく此の衣に一万八千の功徳有り四角は四天王の座なり三点は法身般若解脱なり角は四天下なり、已上、雑法蔵経に云はく有る人袈裟を造り僧に施与せば三千大千世界に於いて七宝塔を建立し恭敬供養する功徳に過ぐ已上、分別功徳論に云はく昔し袈裟を洗ひ園辺に懸く五百の牛、下より行く、牛の一角袈裟を懸けて行く其の功徳に依つて乍ちに五百皆羅漢と成り河魚類、皆天に生す云云、六物図抄に云はく衣有り一は安陀衣(即五条名下衣亦謂内衣雑作衣)二は鬱多羅衣(七条名中衣又名入衆衣)三は僧伽梨衣(九条大衣也亦名く王宮衣と)、已上。
 
日因私に云はく凡そ三衣は即二種あり、一には俗弟子の三衣、二は出家弟子の三衣なり、所謂る出家の三衣とは即ち上中下の袈裟なり、俗弟子の三衣とは大方等陀羅尼経に云はく在家の行者髪を除かず応に三衣六物を畜へ道場に至り比丘浜の如く浄行を修行すべし、阿難仏に問ひ言して云はく何ぞ三衣を具する、仏告げて言はく三衣とは一には単縫衣と名く二には俗服と名く、阿難仏に白して言はく世尊向きに説く一には出家衣、二には在家服と、若し在家は三種を用ひんや否や、仏告げて云はく一に出家の衣は三世の諸仏の法式を作る、二には俗服は我か弟子をして道場に赴かしめんと欲する時、当に一服を著け、常に身に随逐し寸尺も離れざるべし、若し此の衣を離れば即ち障道罪を得、第三の衣は俗服に具し将に道場に至らんとするとき常に用ひて坐起せよと云云、
 
此則ち俗弟子の三衣を明す所謂る一は単縫、二は俗服、三は具俗服なり、第一単縫衣は今の俗、十徳を用ゆ亦出家の衣是れなり、第二の俗服、今の白衣明衣是れなり在家出家倶に之を用ゆ、第三の具俗服は是れ在家出家の下著衣なり、而るに出家の三衣は上中下の袈裟を云ふなり、此れは別して之れを出だす、若し通則の出家亦在家の三衣を著用し其の上に袈裟を懸く而して俗衣の三を合せて二と為す、謂く単縫の衣とは今の出家の衣は素絹なり、俗服是れ白衣下合して俗服衣と為す故に袈裟を懸くる時は三衣なり、此れは通して之を言ふ、然るに法苑珠林四十七三会名の部の初めに此の文を引き一単縫衣を除き一出家衣を加へ以つて三衣と為すは恐くは謬りなり、本経の文意は一は単縫、二に俗服、三は具俗服衣、既に俗弟子三衣を明かす何ぞ袈裟を加へて俗の三衣と為んや、又一名単縫衣を取らざるや、然も亦俗の三衣をば出家に於いては倶に俗服と為すのみ、故に日有上人物語に云はく当宗の衣は俗衣なり禅宗の衣は唐土の俗衣なり云云此の意なり。天台宗の口伝に云はく三衣とは一は袈裟、二は単縫の衣、三は俗白衣なり、故に衣の袖口に白物を附く即白衣に代ふるなり云云。
 
当宗には一は袈裟、二は衣、三は下白衣、此れ即ち三衣なり、尚又白衣の下に俗服衣を著用するは大方等経の第三の衣、俗服是れなり、但し出家の三衣とは経文に依るには別して上中下の袈裟なり、通しては則ち一は単縫衣、二は俗服白衣、三は袈裟なり、又義に依る則きは袈裟と衣と数珠とを以つて三衣と為すのみ、数珠は道具たりと雖も而も衣類の故に三衣と為するなり、又大方等経の文に云はく一に出家の衣は三世の諸仏の法式を作すとは即上中下の三衣なり。
 
日因今案して云はく此の機見不同なるものか、今此の土の小乗の行者は仏は木蘭等の色衣を造れりとす、而るに法華本門の時、色衣を捨てゝ唯白衣白袈裟を著用す、故に本門の機、白色の三衣を見る清浄の衣なるが故なり、然るに今当家の依用に二種の法衣あり、一には白袈裟二は薄墨色なり、此れ則ち法華本門本因妙の行者なるが故なり、若し諸の色衣は小権迹門の方便の三衣なるが故に、在家脱益の教主釈尊、自受用身の衣尚金色にして本因妙の衣に非ず、況んや小権迹の色衣をや、当山の白袈裟是れ理即凡僧なり、薄墨即名字の聖僧成るべし、然るに名字の聖僧、白袈裟を著用するは即本有常住の袈裟を顕す故なり。
 
一、数珠相伝の事。
口伝に云はく凡そ数珠は定慧相応の事躰なり、慧の糸を以つて定の珠を貫き百八三昧の明珠を瑩き八万四千の癡暗を除く、我性中道の内衣の繋珠、王頂の珠なり、即一切衆生所具の仏性了因、性徳実相の明珠、当躰現前の事法なり、修得に百八煩悩を断し百八三昧を証するなり、一珠を越せば一仏性を顕す義なり、一方五十四は是れ五十二位、二は資糧加行の二位に加へて五十四と成るなり、緒留は等覚位なり達磨は妙覚の故に妙覚極果を越えず則之れに過くる上位之れ無き故なり、四の玉十住十行十回向十地の四位なり、十の弟子は十波羅蜜なり、左右の露は福智の二つなり、数珠の緒は口伝之れ有り云云、其の故は智の糸なり万物次第次第に桜、梅、松、鶏冠木と分別する事の間断が之れ無し、其の如く百八の数々連なる故、五十二位顕はるゝ処の中道不思議の思議なり。
平形の念珠、経に云はく円形の念珠は唯我か弟子なり、平形の念珠は我か弟子に非す云云。
 
(図、略す)
以下に八十二澄凾を引く。
金剛瑜念珠経に云はく金剛薩・偈を説いて曰はく。
硨磲の念珠は一倍の福、木槵の念珠は両倍の福。
鉄を以つて珠と為ば三倍の福、 熟銅を珠に作れば四倍の福。
水精真珠及び諸宝、 此等の念珠は百倍の福。
帝釈子は千倍の功積、 金剛子の珠は倶胝の福。
蓮子の念珠は千倶胝、 菩提子の珠は無数の福。
仏部の念珠は菩提子、 金剛部の法は金剛子
宝部の念珠は諸宝を以ちゆ、 蓮華部の珠は蓮子を用ちゆ。
羯磨部中に念珠を為くる、 衆珠間雑して応に貫串すべし。
念珠分別に四種有り、 上品最勝及び中下。
一千八十を以つて上と為し、 一百八珠を最勝と為す。
五十四珠を以つて中と為し、 二十七を以つて下類と為す。
二手に珠を持ち心の上に当て、 静慮離念仏専注せよ。
本尊瑜伽の心一境に、 皆理事の法を成就す文。
即天上大弟子心地を証す、宝珠は是れ十種の勝利を表す、又書す、菩提子亦活児と名く、一外道あり既に児忽に死す、愛念を用ての故に○菩提樹下に帰依し活を乞ふ、悲力還つて生活し息を生する故に菩提樹亦名けて児樹と曰ふ。
 
欒 桐 槐 楡 桑 棗 李 杳
又高雄口決に云はく二の母珠は無量寿仏と為す、其の緒を観音と為す、百八珠を位地と為す、乃至片方は五十四位数なり、廿一丸を著けて一の結となす、一返上るは是れ流の義なり即ち利他なり、残る片方は是れ不流の義なり、其の珠の堅の丸は是れ断証の義なり、片方五十四は五十四位に充て了んぬ文、此は数珠経抄を引くなり。
 
日因云はく此の口伝の中に数珠を以つて定慧相応の事躰と為す等とは且らく然るべし、但し一方五十四珠を以つて五十二位及び内外凡の資糧加行位の二位を表すとは恐くば謬りなり、又緒留を等覚と為し達磨を妙覚と為すは亦宜んからざるなり。
 
今数珠を弁ぜば大に分つて二と為す、一は教門、二は観門なり。
第一に教門とは、大小顕密不同なり、仏説木槵子経の如きは小乗経にして但六道の現当を明すなり、数珠経の如きは大乗大菩薩の発心十方往生等を論するなり、若し真言密教の如くんば多く現世祈願の数珠を明すなり、今諸経を出ださば。
仏説木槵子経は離国王の為に現当の祈祷を説くなり、故に経に云はく時に離国王波流離と名く使を遣はし仏に白して言さく世尊我か国は辺小にして頻歳、五穀勇貴し疫病流行し人民困苦し、我れ恒に安を得ず、如来の法蔵多く悉く深広なり、我れに憂務あり修行するを得ず、唯願はくば世尊特に慈愍を垂れ我れに要法を賜へ、我れをして日夜修行を得易からしめ未来世中に衆苦を遠離せしめよ、仏王に告げて言はく若し煩悩障、報障を滅せんと欲せば当に木槵子一百八を貫き以つて常に自ら随ふべし、若しは行、若しは卧、恒に至心に分散の意なく仏陀、達磨、僧伽の名を称ふべし、乃ち一木槵子を過ぎ是くの如く漸次に木槵子を度る、若しは十、若しは二十、若しは百、若し千乃至百千万、若しは能く廿万遍に満ちて身心乱れず諸の謟曲無くば命を捨てゝ第三燄天に生るゝを得ん、衣食自然にして常に安楽行ならん、若し復能く百千万遍に満たば当に百八結業を断除し始めて生死の流に背き泥・に趣向し永く煩悩の根を断ち無上果を獲と名けん、信還りて王に啓す王大に歓喜して。に世尊に向ひ頭面に仏を礼し大善と云ふ我れ当に奉行すべし、即ち吏民に勅して木槵子を営弁し以つて千具と為し六親国威皆一具を与ふ、王常に誦念し親り軍旅と雖も亦廃置せず云云。
 
次に大乗経、仏説陀羅尼集経第二(廿九)に云はく滅罪死して彼の阿弥陀国に生れんと欲せば、日々供養の時、金を以つて数珠を作れ、若し無くんば銀を用ひよ、若し銀無くんば赤銅を用ひよ、若赤銅無くんば、水精を用ひよ、数一百八枚、無くんば五十四枚、更に無くんば四十二枚、更に無くんば廿一枚、此くの如く等の珠に之れを搯り咒を誦する時、珠を以つて十波羅密多と為し以つて仏を念し咒を誦せ、阿耨多羅三貌三菩提の為に、若し阿弥陀仏を作り供養する時、応に上件物等を用ひ珠を造るべし、余物は得ざれ、若し余雑物を以て作らば一切験を得ず、其の中最も好きは水精を以つて数珠を作り咒を誦せば衆罪皆滅すること珠の映徹するが如く自身も亦然なり、此の水精珠は通して一切仏菩薩金剛天等の法の如し云云。
 
又云はく(廿九)仏説作数珠法相品に云はく爾時仏・蒭・蒭尼優婆塞優婆斯迦に告はく、諸善男子、善女人等当に発心して阿弥陀経を誦すべし、阿弥陀仏を念し及び我か三昧陀羅尼秘密法蔵神印咒を誦する者、彼の国に往生し及び共に一切衆生を護念することの成就を得んと欲して、復能く苦行し至心に受持し日々供養し一心専在して余境に縁すれ莫れ、若し経を誦し仏を念し咒を持つの行者、一々に各須らく手に数珠を執り阿弥陀仏三昧経説に依るべし、復此くの如く一切陀羅尼、諸仏菩薩金剛天等の法の中に依るに出す所の其の数皆須らく諸の相貌を具すべし、其の相は四種あり何者を四と為す、一には金、二には銀、三には赤銅、四には水精なり、其の数皆一百八珠を満て、或は五十四、或は四十二、或は二十一亦用ゆることを得、若し此等の宝物数珠を以て之れを搯り誦咒誦経念仏の諸行者等当に十種の波羅密の功徳を得て現身に満足し、即阿耨多羅三藐三菩提の果を得べし、其の四種の中に水精第一なり、其の水精は光明比無く浄くして瑕穢なく妙色広大にして猶仏菩提の願を得、故に洞に彼国に達し一に珠相の如し、是の義を以て故に之れを称して上と為す、其の珠を把り搯くる亦能く念誦行者の四重、五逆、衆罪業障を除滅し、所有の報障一切の悪行染著する能はず、珠の光明の為に色相を受けず、若し人常に念仏法を行する者、木槵子を用ひて以つて数珠と為し、若し咒を誦し受持せんと欲する人は前四色の宝を以つて数珠を為せ、若し菩薩、咒法の業を作す者は菩提子を用ひて以て数珠と為せ、若し無くんば蓮花子を用ひて充つべし、若し火頭金剛業を作す者は肉色の珠を用ひて以つて数珠と為せ、此等の数珠皆法相に合す是の故に我れ此の法を以つて世間持法の行者を護念す、是の衆会の中一切の菩薩摩訶薩、金剛天等、仏の所説の数珠法を聞き已つて歓喜せずと云ふこと無く、同時に善と称す、
 
仏言はく若し人法相の数珠を作らんと欲せば先つ珠匠を喚び価直を論すること莫れ、務めて精好を取り其の宝物等皆須らく余の用を経ざる者なるべし、一々皆須らく内外明徹破缺有ること無く円浄皎潔なるべし、大小は意に任かせよ、其の珠匠とともに先づ八斎を受け香湯に洗浴し浄衣を著け○日々各香花を以つて供養し又一両盤の餅果を著け供養す、又復夜別に各七灯を然し是の相を作し珠一百顆の珠を造成し已り又一金珠を作り以つて母珠と為す、又更に別に十顆の銀珠を作り以つて記子に充つ、此れ即名けて三宝と為し法相悉く充ち円備して能く行者をして是の珠を搯くらしむる時、常に三宝の加被護念を得、三宝と云ふとは所謂、仏宝法宝、僧宝なり、此の証験を以つて何ぞ西方浄土に生ぜざるを慮はからんや、是の珠を作り已つて此の壇中に於いて更に種々の香水を以つて珠に酒ぎ又七盤食を著き三七灯を然し仏、般若菩薩金剛及び諸天等を請す、仰き啓して三宝の威神力を供養称賛する故に種々の法事皆効験有り、然る後持行随身備用せよ一切諸悪相染著せず、一切の鬼神共に相敬畏す、是の故に福力具足、功徳満願を成弁す是れを数珠秘密功能と名づく、其の阿弥陀仏陀羅尼印咒、八万四千の法門あり中に於いて略して此の要を出だす如意宝の如し、上の阿弥陀仏の法を以つて竟に法に依りて之れを行せば福限り無きなり文。
 
仏説校量数珠功徳経に云はく爾の時に文殊師利法王子菩薩摩訶薩、諸有の有情を利益せんと欲するが為の故に大悲心を以つて諸の大衆に告げて言さく、汝等善く聴け我れ今数珠を受持し功徳を校量し獲得する益の差別を演説せん、若し諸陀羅尼及び仏名を誦念する有らん者の自ら利し及び他人を譲らんと欲するが為に、速に諸法を求め験者と成ることを得ん、其の数珠の法応に是くの如く有るべし、須らく当に受持すべし、若し鉄を用ひて数珠と為ば一遍を誦搯して福五倍を得ん、若し赤銅を用ひて数珠と為ば誦し搯りた一遍すれば福十倍を得ん、若し真珠珊瑚を用ひて数珠とせば誦し搯り一遍せば福百倍を得ん、若し木槵子を用ひ数珠とせば誦搯一遍福千倍を得ん、若し諸仏浄土及び天宮に往生するを求むる者は応に此の珠を受くべし、若蓮子を用ひて数珠とせば誦し搯り一遍して福万倍を得ん、若し因陀囉佉又を用ひて数珠とせば誦し搯り一遍して福百万倍を得ん、若し烏●陀囉・又を用ひ数珠とせば誦搯一遍して福を得ること千万倍、若し水精を用ひ数珠とせば誦一遍して福を得ること万々倍、若し菩提子を用ひて数珠と為す者、或は用つて搯り念じ或は但手に持ち数誦一遍する其の福無量不可算数校量すべきこと難し、諸の善男子其の菩提子は若し復人有つて手に此の珠を持ち法に依つて仏名及び陀羅尼を念誦すること能はず、此く善男子但能く手に持ち身に随へ行住坐卧に出す所の言語、若しは善若しは悪斯れ此の人の以つて菩提子を持つ故に由り福を搯得ること等同ならんこと、諸仏を念し咒を誦するが如く異りなく福を獲ること無量ならん、其の数珠は要らず当に須らく一百八顆を満すべし、如し其れ得難ければ或は五十四と為し或は廿七或は十四亦皆此れを用ゆるを得、即数珠法相差別なり云云。
 
此の下重ねて過去因縁を説く外道邪倒見を信し三宝を毀謗す忽ち一子死し菩提樹下に著く一七日に蘇生す、外道悉く邪を捨て正に皈し菩提心を発す、延命樹と号す、何ぞ菩提樹延命樹の二名有らんや云云。
私に云はく此れは大唐の天竺三蔵宝思惟の訳なり、又大唐三蔵義浄の訳之れ有り同本異訳なり、彼数珠鈔は西山沙門亮沙の述なり。
 
(八十二若凾)○又大方広仏菩薩文殊師利根本儀軌経第十一、数珠儀則品第十二、爾時に世尊釈迦牟尼諸浄光天衆を観察して妙吉祥童子に告げて言はく妙吉祥、汝今諦る真言行修行の行人、一切有情の為に持誦真言及び諸経法平等成就の法数珠儀則一切真言を明すを聴け、○我れ今汝が為に分別して広く所有の一切楽真言行を説かん、諸の有情等若し能く清浄に受持し一心に一切義に専精せば皆成就するを得ん、我れ今最初真言を説いて曰く、○此の真言若し行人有つて凡そ数珠を造作せんと欲せば一切諸事求むる所、清浄にして鑽磨貫穿に至り種々の受持凡そ所作の事皆悉く成就せん、初め珠樹を見て将に収め取らんと欲せば先づ当に彼の樹を加持し及び自身を擁護し須らく専注し誠心に此の真言を念すべし、卅七徧、○吉祥樹珠数種を求む、第一金剛子、第二因捺囉子、第三菩提子、第四子及び別樹等子具足者へ○乃ち珠躰清浄を得ん、復童女をして線を合せしめて五色の絲を用つて色を合せ華鬘の如く、或は三合或は五合、珠の受くる所に随つて当に須らく緊合すべし、智者子を選び切に須らく勻好すべし朽損及び缺減とを得ざれ、並に須らく円満なるべく仍細きを上と為す、彼の菩提子、金剛子、印捺囉子、槵子等及び別子を用ひ一々に殊妙上等を揀選す、彼の持課人要す当に一心に専注成弁すべし、
 
此の外或は金、銀、真珠、水精、硨磲、碼碯及以ひ珊瑚種々諸宝を用ひ、或は最上摩尼宝等を用ひて必す須らく円満肥潤にして缺減せしむる勿かるべし、凡そ貫の時に心に摂め専注して散乱するを得ず、珠成るの後、所有の求願疾くに霊応を得、○亦珠数不定亦三品有るを得、上品は一百八、中品は五十四、下品は廿七、別に最上品有り当に一千八十を用つて数と為すべし復、金、銀、銅、鉄、鍮、石、鉛、錫等を用ひて或は一種二種三種を鋳て成る、唯堅穿円満なるを求め缺減せしむる勿れ,仍須らく光明瑩浄にして宝瓔珞の如くなるべし、凡そ持課の行人当に須らく持戒清浄なるべし、然かも更に長流河水及び別浄水に就いて清浄澡浴し竟り,然る時数珠は先づ浄土を以つて楷摩し後水を用つて洗ひ然る後、復五香水を用へて洗ふ、復上妙の塗香及び上色の白栴檀及び恭倶摩等の香水を以つて浄拭し竟る、彼の持課行人此の珠を将つて就いて仏像の処に詣る、其の仏像或は塑或は画、当に最上厳飾を求む、第一等像、釈迦牟尼仏、人天の師、仏言に依り其の地界を結し仏像を安置す、彼の仏前に於いて端身正坐、一心専注して真言を誦する一千八十遍、或は一百八遍、両手を以つて捧け本師釈迦牟尼仏に奉上す云云、下略。
 
又蘓婆呼童子経上、賢函五十七法門珠障分品第三、又蘓悉地羯羅経(第二)五十七克凾供養品第十八(廿一)、四巻同訳唐輸波迦羅漢。
又一字仏頂輪経広密儀品第三(六巻にあり)五十七克凾(又名五仏頂経唐菩提流支訳)。
 
又仏説持明蔵瑜伽尊那菩薩大明成就儀則経、八十二思凾法賢訳。
又仏説倶胝母准提大明陀羅尼経(観行法附)、四十八莫凾、一巻唐金剛智訳。
又、七倶胝仏母所説准提陀羅尼経、四十八莫凾、一巻、不空訳。
又、仏説金剛瑜伽念珠経、八十二、思凾。
此れ等の諸経は皆是れ秘密真言の数珠の法を之れを説くなり。
 
又、類雑三(五十六)に数珠経を引いて云はく母珠を越ゆべからず驀過越罪千万なり数珠は仏の如くせよ、勢至経に云はく平形を以ゆる者此れは是れ外道の弟子なり我か弟子に非らず、我か弟子必す円形の念珠を用ゆべし、次第を越ゆる者は妄語の罪に依り当に地獄に堕つべし文。
 
日因云はく此の中の数珠経は金剛瑜伽念珠経の文なり而るに引文甚だ謬りなり、母珠を越ゆべからすの句之れ無し、又千万の二字之れ無し、又勢至経と云ふ経録に之れ無し、口伝に平形念珠経を引くなり。
八十澄凾不空訳金剛瑜伽念珠経に云く爾時に毘盧遮那世尊、金剛手に告げて言はく善き哉々々、諸の真言行を修する菩薩者の為に諸儀軌則を説き未来の諸の有情等を哀愍するが為に念珠の功徳勝利の由を説く、是くの如き妙意趣を聞くが故に速に悉地を証す、時に金剛薩・菩薩仏に白して言さく唯然り世尊我れ今之れを説かんとす、爾時に金剛薩・菩薩而も偈を説いて言く。
 
珠は菩薩の勝果、 中間に於いて満するを断漏とす。
縄線貫串して観音を表し、 母珠は以て無量寿を表す。
慎んて越法罪を驀過する莫れ、 皆念珠に由りて功徳を積む。
硨磲念珠は一倍の福、 木槵念珠は両倍の福。
鉄を以つて珠と為ば三倍の福、 熟銅珠を作らば四倍の福。
水精真珠及び諸宝、 此れ等の念珠は百倍の福。
千倍の功徳帝釈子、 金剛子の珠は倶胝の福。
蓮子念珠は千倶胝、 菩提子珠は無数の福。
仏部の念珠は菩提子、 金剛部法は金剛子。
宝部念誦は諸宝を以ちゆ、 蓮花部は珠に蓮子を用ゆ。
羯磨部の中の念珠たる、 衆宝間雑応に貫串すべし。
念珠分別して四種有り、 上品最勝及び中下なり。
一千八十以つて上と為し、 一百八珠最勝と為す。
五十四珠以つて中と為し、 二十七珠を下類と為す。
数珠を二手にし心上に当て、 静慮念を離れ心専注し。
本尊の瑜伽と心と一境せば、 皆理事の法を成就するを得。
設ひ頭髻に安き或は身に掛け、 或は頭上に安き或は臂に安き。
所論言論念誦を成す、 此の念誦を以て三業を浄む。
頭髻に安くに由つて無間を浄め、 頭上に帯ぶるを以て四重を浄む。
手臂上に持てば衆罪を浄め、 能く行人をして速に清浄ならしむ。
若し真言陀羅尼を修し、 諸の如来菩薩の名を念ず。
当に無量の勝功徳を獲、 求むる所の勝願皆成就せん文。
已上四十八句偈なり。
加持念珠貫串の法、一に蘇悉地経に説くが如し、其の瑜伽経には但其の功能を説く、理趣には相を説かず応に知るべし已上。
 
日因私に云はく伝文中に之を引く甚だ乱脱せり、仍て今之れを出す之れを見合せよ云云。
又念誦所表中越過を誡しむ母珠のみに非ず惣して百八罪福を除く、何ぞ母越に限ると為んや。
 
次に観門の念珠法門とは。
天台宗数珠口伝に云はく決に云はく数珠とは百八煩悩なり惣して百卅六反なり、百卅六とは百卅六の地獄を表するなり、母珠は法身如来弟子は報身如来なり、惣して余は皆応身如来なり、夫れ母珠は宝塔なり弟子は九輪なり是れ釈迦多宝の二仏なり、又母珠は仏界なり余は皆九界なり、百八煩悩即菩提生死即涅槃なり、念珠を廻せば三障即三徳と転すること疑ひ無きなり、七反は万法皆備はる義なり是れ一七日に当るなり、されば一七日を以つて一切の事を皈するなり、廿一返に三七日に当る亦是れ皆備の義なり、又廿一返に○ 卅三返なり是れ観音の卅三身を表するなり、数珠は我れ等が五大、五大は五大明王なり是れ皆不動の尊形なり、是れは百八煩悩を打たんが為に百八尊の不動と顕るゝなり、此の数珠を上へ引きかくるは上求菩提なり、下へ引きくだせるは下化衆生なり、是れ皆仏界より余の九界へ応を垂るゝなり、露の緒は智福の二徳なり、迷ふ則は百八煩悩と名け百卅六地獄と名くるなり、悟る則は妙覚如来の一仏と名くるなり、夫れ数珠は珠は我れ等が心性の珠なり数は我れ等が煩悩の数なり、故に珠を研けば光を顕し煩悩は忽に仏と成る故に珠の光を顕はし暗夜を照すは仏の眉間より光を放ちて東方万八千世界を照らすが如きに喩ふ、数は一切衆生の数なり塵沙なり、塵沙とは無明なり無明は即法性なり、法性とは我れ等が一心と口伝するなり、穴賢々々努々秘蔵すべし云云已上。
 
日因私に云はく此の口伝信用し難きなり、一には仏説には百八数珠は法宝を表はし又十波羅密を表す何ぞ百八煩悩と為んや、況んや百卅六を表する義、数珠に合せざる者なり、二には母珠は法身、弟子は報身、余の珠は応身と亦然るべからざるなり、既に母珠に二有り法身に二躰有るべからざる故なり、又弟子報身ならば法身と不同なり豈境智不二を成さんや、三には母珠弟子を以つて宝塔九輪及び釈迦多宝に合すること甚だ不可なり、何となれば釈迦多宝は師弟に非る故、又宝塔九輪も母子の義に非るが故なり、四には母珠は仏界、余珠は九界とは此の義亦然らず何となれば母珠に二有り、仏躰二種と云ふべけんや、九界は百八煩悩即菩提涅槃ならば母珠の外の菩提涅槃にして三障即三徳の義に非ずや、五に観音三十三身、百八尊、不動等甚だ乱同せり、其の外東方万八千放光迷悟の二義等依用し難き者なり。
 
又上来出だす所の高雄寺口伝等に数珠は五十二位を表す等の義亦未了なり、一には百八の数に合はず、二には諸修多羅に合はざる故、三には左右の露は卅一及び四徳利の所表之れ無き故に理尽に非る者なり。
又謡抄九註云はく百八煩悩の数の事、一経の中に五十校計経と云ふあり迷によせ覚によせ数をただして五十箇の百八の数を出だしたり、故に是れを五十校計経と名けたり、其の中に付いて即天竺にして大論と云ふ論に評論し大唐にて天台智者大師此の義を理はり給ふ、其の一辺に依つては云はば眼に色を見に善色悪色中分の色あり、此の三に付いて執著すると著せざると二あり、三の色に二の筋あれば六と成るなり、眼耳鼻舌身意に各六有る故に六々卅六に成る、過去心と申して過ぎ去りし心をも収め現在心と申して今思ふ処を含め未来心とて後にある心をも縮め置く故に三十六、過去現在未来の三に合せ則百八とつもれり、此の百八の煩悩を仏法の一心におさめて一念にすりくだき変して覚心と成る義なり、倶舎等に説きあれども今此の数知り易き故に之れを記す云云。
又一代経法数六十八(十)四教儀集註を引く。
 
今日因私に云はく仏説明度五十校計経二巻後魏安世高訳なり、単訳大乗経五十四綵凾に之れ有り、迷ふ則は百八煩悩の数覚る則は百八法性の数、天竺の大論、漢土の天台の判釈未だ之を見ず、然るに今数珠の義を論ずるに大小顕密仏説不同にして大躰異ならず、而るに諸宗の了簡依用同じからず、当家にも元祖已来真なる論説未だ之れを見ず、古来相伝之れ有りと云へども皆悉く紛失して之れ無き故に決定し難き者なり、若し天台宗口伝は上来之れを出だすと云へども修多羅に合せざる故に之れを依用し難し、爰に予当山卅一代の歴代に列すと雖も而も愚鈍にして弁明し難き者なり、縦ひ一往之れを論するも誰人か之れを信ぜんや、但末代の為に其の少分の得解を記し置くもの、且くら二門と為す。
 
初に教門不同三と為す、一は数珠の躰相、二は依用の不同、三は数珠の功徳。
観門不同、三と為す、一は簡示、二は所表、三は行法なり。
第一教門、数珠の躰相不同とは小乗教、仏説木槵子経には但一種の数珠を出だす、謂はく木槵子数珠なり、大乗方等陀羅尼教には四種を出だす、一には金子、二には銀子、三には赤銅子、四には水精子、其の数皆一百八珠を満す、或は五十四、或は四十二、或は廿一亦用を中るを得、其の四種の中水精第一なり、各一百顆を作り又一金珠を作り以つて母珠と為す、更に別に十顆の銀珠を作り珠を記子に充つ、此れ即名けて三宝と為す法相悉く充満し能く行者をして此の珠を搯くらしむる時三宝の加被護念を得、三宝と言ふとは所謂る仏宝、法宝、僧宝なり、此くの如き証験何ぞ西方浄土に生れざることを慮からんや云云。
 
私に云はく此れは是れ浄土宗之れを依用するのみ、故に母珠但一なり、又露は十珠記子外に二十珠之れ無し、而るに三宝と為すとは母珠を仏宝として弥陀仏を表する故なり、百八珠を法宝とし十珠を僧宝とす、或は記子十珠は十波羅密を表する故に法宝なり、貫穿を以つて観音を表する故に僧宝とする意なるか。
又金剛瑜伽念珠教に金剛薩・菩薩偈を説いて言はく珠は菩薩の勝果を表し中間に於いて満するを断漏とす、縄線貫串は観音を表し、母珠は以つて無量寿を表す、慎んで驀過すること莫れ越法罪なり、皆念珠功徳を積むに由る云云。
 
日因私に曰く此れ文亦浄土宗の依用の文なり、但し珠は菩薩の勝果を表すとは百八顆の珠皆法宝なり、一百八名陀羅尼経聖観自在百八名教(七十二則凾)、又仏説一切如来頂輪王百八名讃教、仏説文殊師利一百八名梵讃経、聖金剛手菩薩一百八名梵讃(八十二言凾)、又一百八三昧、又般若波羅密多一百八名真実円義陀羅尼経(七十六斯凾)、此の等の経々皆是れ仏法僧の三宝皆一百八名有るのみ而るに方等経の意は西方阿弥陀に八万四千の法門有り中に於いて略して此の一百八の法要を出だすなり。又慎んて驀過すること莫れ越法が罪なりとは点の如し、人師の数点不可なり、況や類雑三(五十六)数珠教を引いて云く母珠を越ゆべからす驀過越法罪千万云云、此の経は金剛瑜伽の文なり、然るに不応越母珠の句之れ無し、又慎莫の二字を置いて而も千万の二字を加ふる甚だ謬りなり、但し録外御書四(四十五)数珠教を引いて云はく不応越母珠過越諸罪数珠は如せよ仏の、勢至教に云く超越次第者依因果妄語之罪当堕地獄云云、此勢至経の文何れに在りや、又数珠経に云はく不応越母珠等の二句之れ無し(更詳)、今之れを案するに義引なるべし、他受用二(卅)引く。
 
又金剛瑜伽念珠経に九種の数珠を出だす、一は硨磲念珠、二に木槵、三は鉄、四は赤銅、五は水精、六は帝釈子、七は金剛子、八は蓮子、九は菩提子、而も次第勝劣之れを判す。
又蘓婆呼童子経の上に十一種の数珠を出だす、謂く活児、蓮花子、阿●陀阿叉子、水精、共銅錫、木槵、瑠璃、金銀、鉱鋼啇佉なり。
又文殊根本儀軌経の十一には七種を出だす、金、銀、真珠、水精、硨磲、瑪瑙、摩尼なり。
 
日因私に云はく数珠躰相多しといへども造作皆同なり、円形にして百八は最勝とす一千八十を上と為し五十四を中となし廿七を下と帰す、又四十二、廿一、又十四、七其の珠得難きを以つての故なり、故に仏説陀羅尼集経に云はく金を以つて、数珠を作り、若し無くんば銀を用ひよ、○数は一百八、数無くんば五十四、更に無くんば四十二、廿一、此等の如き珠之れを搯くり咒を誦する時、珠を以つて十波羅密と為し以つて仏を念じ咒を誦するを無上三菩提と為す云云。
付り数珠の木等を求むる事、大方広菩薩文殊師利根本儀軌経(第十一、八十二、若凾)。
 
付り数珠を造る法の事、同
付り貫穿の法の事 同
付り貫線の法の事、仏説明蔵瑜伽大教尊菩薩大明成就儀軌経(第二七八十二丁思凾)。
又云はく菩提子を用ひて線廿一条を以てせめ一条と成す云云、又一字仏頂輪経二(五十七克凾)。
 
第二に依用不同を明すとは、若し小乗経木槵子経は但木槵の数珠を用ひて現当二世を咒願するなり、若し方等大乗陀羅尼集経には四種の数珠を出すとも雖も而も水精を以つて第一として西方往生を咒願するなり、又常に念仏の法を行する者は木槵子を用ひ、若し咒を誦し受持せんと欲する人は金、銀、水精の四種を用ひ、又菩提咒法の業を作さん者は菩提子を用ひて数珠と為す、若し無くんば蓮子を用ひて之に充つ、若し火頭金剛の業を作さん者は肉色珠を用ひ以つて数珠と為す、此れ等数珠皆法相に合す、是故に我れ此の法を以つて世間持法の行者を護念す云云。
若し真言経には如来部は菩提子を用ひ、金剛部は金剛子を用ひ、宝部は宝珠を用ひ、蓮花部は蓮子を用ひ、羯麿部は雑宝間錯を用ゆ云云、瑜伽念珠経第四の意なり。
 
第三に数珠の功徳を明すとは、若し小乗経中には現世に災難を除き未来には阿羅漢等と成ること木槵子経に説くが如し、離国王数珠を得て以つて三宝の名を誦し未来生には則常に十善を聞く云云、経に云はく仏、王に告げて言はく若し煩悩障、報障を滅せんと欲せば当に木槵子一百八を貫き以つて自ら随ふべし、若は行若は坐若は卧当に至心にして分散の意なく仏陀、達磨、僧伽の名を称ふべし、乃ち木槵子を過ぎ是の如く漸次に木槵子を度る若は十若は廿若は百若は千乃至百千万、若し能く廿万遍に満ち身心乱れず諸の謟曲なき者、身を捨てゝ第三燄天に生するを得ん、衣食自然に常安楽行なり、若し復能く百万遍に満たば当に百八の結業を断除することを得ん、始めて生死の流に背き泥・に趣向すと名けん、永く煩悩を根本を断し無上果を獲ん云云、(此の中無上果は辟支なるへし、下の文往見)、若し大乗方等経の意は若し弥陀国に往生成就を得んと欲せば水精を以つて数珠を作り、咒を誦せば衆罪皆滅すること珠の映徹するが如く自身亦然り、乃至此の数珠を作り持行随身して備へ用ひば一切の諸悪相深著せず、一切鬼神共に相敬畏せん是の故に福力具足して功徳満願を成弁せん是れを数珠秘密功能と名く云云、仏説七倶胝仏母大明准提陀羅尼経、四十八莫凾。
 
若し大乗真言秘密経の意は若し解脱を求め速に生死を出離せんには又此の念珠を以つてせよ、三業を浄めんは頂髻に安くに由る。無間を浄めんは頭上に帯するに由る、四重を浄めんは手に持ち臂に上くれば衆罪を除き能く行人をして速に清浄ならしめん、若し真言陀羅尼を修して諸の如来菩薩の名を念せば当に無量の勝功徳を獲て求むる所の勝願皆成就せん云云。
 
第二に観門不同とは、先づ小乗経の観行を明すとは木槵経の如く百八の珠を貫て数珠とし行往坐卧身を離さず、至心寂静にして三宝の名を称へ十百千万遍若し能く廿万遍に満ち身心乱れず諸の謟曲無くば命終して第三天に生ずるを得、衣食自然に常に安楽行ならん、若し復能く百万遍に満たば百八結業を断除し始めて生死の流に背き泥・に趣向する者となり永く煩悩の根本を断ち無上の果を得るなり、若し大乗経の意は両手に珠を持ち心上に当て静慮に念を離れ心専注し本尊と心と一境して皆理事の法を成就するを得、復誦経の時は急ならず緩ならず高からず下くからず分明に文字を称へ而して自ら聞かしむ、所観の本尊及び身上に念誦の数を記し一念の中に於いて観見し心散乱せず千二千乃至五千返、常に数を取り又解脱を求め自然に仏果を得、一切の福求めざるに自然に之れを得云云。
 
付り数珠印の事、真言家に之れ有り(五十七克凾)故に蘇悉地経第二に云はく次に法に依つて則ち諸事業を作す先づ右手を以つて数珠を取り左手の中に置き合掌して之れを捧げ明王の数珠を思念して真言を誦す、念誦の時に珠を当心に置き高下するを得ざれ、数珠を捧ぐる時微しく頭を低れ至誠心を以つて三宝を頂礼す云云、又印契法仏母大明陀羅尼経の如し云云。
 
私に云はく大小乗経倶に顕教には印契無し唯真言に印契有るなり、然るに当家の意は百八の珠を貫き行住坐卧に南無妙法蓮華経と唱ふべし、此れ即持戒なり、唯法華経の御本尊を信し余念なき是れ即ち禅定三昧なり、又常恒に仏事を作す此の即身業なり、又諸宗の可否を分別する此れ即ち慧行なり。
 
次に数珠の所表を論ぜば若し小乗経の意は母珠を仏と為し百八珠を法宝と為し貫穿合線露糸を僧宝と為す者か、故に百八法宝を以つて百八結業を断除し生死を出離して無上阿羅漢果を得るなり、若し大乗顕教の意は西方阿弥陀の功徳、八万四千の法門なれども要を取つて百八法門と為す故に百八法門を表するなり、又阿弥陀仏に百八の功徳あり故に百八仏名を合して母珠と為す、仍ち母珠は阿弥陀仏を表す、又十方の諸仏も亦爾かなり。
 
金剛瑜伽念珠経に金剛薩・菩薩、偈を説いて曰はく珠は菩薩の勝果を表す、中間に於いて満するを断漏と為す、縄線貫串は観音を表し母珠は以つて無量寿仏を表す云云。
 
方等陀羅尼集経に云はく珠一百八顆成珠を造り已つて又一念珠を作り以つて母珠と為す、又更に十顆の銀珠を作り以つて記子に充つ此れ即名けて三宝と為す、法相悉充円満し能く行者をして是の珠を搯らしむ時常に三宝の加被護を得、三宝と言ふとは所謂仏宝、法宝、僧宝なり此れを以つて証験するに何ぞ西方浄土に生れざるを慮からんや、其の阿弥陀仏陀羅尼法印咒に八万四千の法門あり略して此の要を出だす如意珠の如し、上の阿弥陀法立を以つて法に依つて之を行すれば福限り無きなり云云。
又云はく若し彼の阿弥陀仏国に生するを得んと欲せば金を以つて数珠を作れ、若し無くんば銀、赤銅、水精を用ひよ、数百八数無んば五十四、四十二、廿一是くの如きの珠之れを搯り咒を誦する時、珠を以つて十波羅密多と為し仏を念じ咒を誦するを以つて無上三菩提と為す云云。
又木槵経に云はく仏、王に告げて言はく若し煩悩障、報障を滅せんと欲せば当に木槵子一百八を貫き以つて自ら随へよ、若しは行、若しは坐、若しは卧、当に至心に分散の意無く仏陀、達磨、僧伽の名を称へ乃ち一木槵子を過き是くの如く漸次に木槵子を度れ等云云。
 
私に云はく此の中百八を貫き三宝の名を称ふ故に知んぬ三宝各百八の功徳有り、故に百八数を以つて百八法の名百八仏の名、百八僧の名の功徳を表する者なり、然れども小乗経中には未だ三宝各百八の功徳有るを説かざるなり、今仏意を取る故に各百八の三宝を表すと云ふなり。
次に方等陀羅尼経の意は既に珠を以つて十波羅密多と為す故に百八珠但是十陀羅尼なり、又母珠を仏宝と為し百八を法宝と為し十顆の記子を僧宝と為す故に数珠は只是れ三宝なり。
 
又真言経の意は縄線貫串は観音を表し母珠は無量寿仏を表し百八珠は是法宝、此れ又仏法僧三宝の数なり、瑜伽念珠経に云はく若し真言陀羅尼を修し法宝諸如来菩薩の名を念し仏僧当に無量の勝功徳を獲て求むる所の勝願皆成就すべし云云、此の即仏法僧の三宝の名なり真言陀羅尼是れ法宝の故なり。
又人師の所論の所表の義不同なり、一には百八法性を表して以つて百八煩悩を対治す、二には百八三昧を表す、三には百八陀羅尼を表す等云云、上に之れを出だすが如し、但し百八三昧行法皆住上の所行なり、百八陀羅尼相似後心の所得の法門なり、末代最初の立行に非ず、但し百八煩悩通して大小乗に亘るなり、具に五十計経に之れを出だすが如し、若し蒙潤の集註に依る則は此れ人師の義立にして仏説の百八煩悩に非る者なり。
 
又仏本行集経を案するに釈迦菩薩兠率天に在り諸天の為に百八法門を説き自ら百八煩悩を治する文之れ有り、大蔵法数に之を引く、六十八十を又十七を。
又仏蔵心宝四十九に毘婆娑論卅七を引く、四流に百八煩悩有り欲流に廿九種有り愛に五種有り恵に五種有り慢に五種有り疑に四種有り纏に十種有り、愛流に廿八種有り、愛と慢と各十種有り、疑に八種有り、見流に卅六種有り、欲色、無色、各十二種有り、無明流に十五種有り、欲、色、無色に五種有り、此百八種は是れ四流の躰、乃至亦百八煩悩と名くと云云。
 
要覧中十。云云
今当家の意を明かさば正く仏法僧の三宝を表す、謂く百八数の珠は是れ法宝なり、衆生に在りては心性如意宝珠なり、無始己来煩悩業苦の三道に覆はるゝ故に心性の珠を隠す、今本門の大法に値ひ之れを信受する故に三道即三徳の宝珠自然に之れを顕す、故に百八の珠は百八の妙法なり所謂煩悩亦百八なり能治所治倶に是れ百八の法門なり、五十計経に百八煩悩、唯是一身一念の法門なり具さに五百四十の百八を成す、故に仏言はく一心の中に五百四十の百八の愛行有り、一愛は当に生死を受くべし、一受は当に一身を受くべし云云、故に煩悩無量無辺、唯念心中に在り、今妙法を唱る則は五百四十の百八無量無辺の煩悩を滅尽するのみ、若し仏果を得る則は我れ等一心性より出づる珠、百八の妙法、乃至無量無辺の妙法と顕る、故に一心性即百八法の珠、百八宝珠即無量無辺の宝珠にして不思議の故に妙法と云ふなり。、次に二母珠は釈迦多宝境智の二法を表するなり、系緒の大珠即釈迦の智慧なり弟子付の大珠是れ多宝の境なり、無明即法性、境智一躰不二の意なり、右釈迦智は右手に之れを掛くべし多宝境は左手に之を掛くへし、釈迦は是れ智なるが故に串線百八珠を貫くものなり、多宝は境を表する故に智に任せ貫く所の法宝皆智慧の所脱と為るなり、境智冥合之れを思へ。
 
次に左右の露は行者の一身を表す、卅一珠は但是十波羅密、分別して卅一珠と為す、其の故記憶珠子なるが故に右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり、一珠は無数位なり既に無数位一つなり、又水精を用ゆるは無数の功徳成する故なり、然れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。
 
次に留珠の首の長きは行者の一心を表して百千万億無数の功徳を慕ひ得んと欲する意なるが故に其の頚長く延びたり、又二重するは功徳を漏らさずと云ふ心なり。
又結線に表示有り右は叶左は叶と石畳となり、惣して左右の総の長きは不動愛染と之れを表す古来の口伝なり。
 
又数珠搯り様の事。
当山に二種有り、一には母珠を越えず一片五十四珠を上に流し下に流す即上求菩提、下化衆生の意なり、此れは要法寺日大、叡山より相伝の義なり当山日昌上人己来之れを相伝すと見えたり、今専ら之を用ゆ但し日因は之れを用ひず、高雄口決に因る則は過失有り教相判の下具さに之れを述べたるが如く多くの過失之れ有る者なり、二には二母珠、数を取る故に百八並に母珠を搯くるべし即大小経論の如く具さに百八珠並に三母珠を満てゝ以つて一遍と為すなり、此れは祖師己来御相伝なり当山日主上人子細有りて関東に下向し下野小金井蓮行寺にして入寂す、故に関東五箇寺並に奥州諸末寺此れより本山の式法を守るのみ、然るに日昌上人已来、山の化儀少し要法寺に准する有り則ち数珠相伝等是れなり、安房国保田妙本寺古来の法を守る本と当山蓮蔵坊日目上人遺跡より引き移りて法儀を立つる故なり、然れば則ち当山二種の中には大衆伝流尤も好き者なり、若し要法日大、叡山相伝を守らば即是れ天台真言流儀なり、況んや百八珠一連成るべきなり最勝に非る故に大小の経論を背く、亦五十二位及び加行資糧を表するは只是れ別教の法門にして円頓の妙義に非るをや、況んや母珠、数を取らざるは則念珠経所製の莫過法大罪なり、皆百八并に母珠に由つて功徳を積む故に、況んや亦法宝の名を唱へ仏僧の名を唱へざる故に三宝の功徳を満せず何ぞ三身三躰三宝の大果を成せんや、故に二母の名を唱へ則別して高声に南無妙法蓮華経と唱へ手を以つて頂いて之れを捧げ信心深く致すべし。
 
又又当山念珠の御相伝三通之れ有り、目師御筆、導師御目録之れ有り、然る処に十八代日精上人御代之れを失ふと見へたり日舜上人精師在府の砌り仰せ越され候へば長持の中に之れ有るべき由仰せ越し候へども之れ無しと見へたり、たとへ之れ有るも日典上人御代に大坊焼失の砌り焼け失せたる者か、故に今御目録十七条のみ之れ有り御相伝悉皆失ふ故、日忍上人日俊上人已来数珠相伝に当山の相伝之れを失ふ故に要法寺日大上人叡山相伝之れ有り、喜はしい哉、悲い哉、大衆方正法を守ると云へども近代上人方は皆正法を失ひ天台真言の邪義に附する故に今日因之を改め近代上人方の附邪の法を疑ふのみ、一には日主上人の立行関東奥方に残り伝はる故、二には当山古老僧皆之れを伝ふる故、三には当山日目上人の相伝悉く房州保田に有る故、四には要法寺二代日大叡山相伝当山に伝ふ、故に知んぬ近代上人方、要法寺日大の邪伝に附するのみ。。
 
編者曰く雪山文庫蔵、要解集(日因上人直筆小本)の中より此を写す、細艸にして蟲損あり誤仮あり転写本も無く判読頗る難やむ、依典の大蔵経は縮蔵及び新修経に依て粗校正を為して延べ書とせり。
 
要宗 目次
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