六巻抄

三重秘伝鈔

三重秘伝鈔第一

 正徳第三癸巳予四十九歳の秋、時々御堂に於いて開目鈔を講じ、而して文底秘沈の句に至る、其の義甚深にして其の意解し難し。所以に文 に三段を分ち義に十門を開く。草案已に畢り清書未だ成らず、むなしく笈の中に蔵して之を披くに遑あらず。而して後、享保第十乙巳予六十一歳の春、たまさか に之を閲するに疎略稍多し、故に粗添削を加うるのみ、敢えて未治の本を留むること莫かれ。然るに此の鈔の中に多くの大事を示す、此れは是れ偏えに令法久住 の為なり、末弟等深く吾が意を察にせよ云云。

三重秘伝鈔           日寛謹んで記す

開目抄上に曰く、一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘し沈めたまえり、竜樹・天親は知って而も弘めたまわず、但我が天台智者のみ此れを懐け り等云云。

 問うて云く、方便品の十如實相・寿量品の三妙合論、豈一念三千経文の面に顕然なるに非ずや、宗祖何ぞ文底秘沈と言うや。

答う、此れ則ち当流深秘の大事なり、故に文少なしと雖も義意豊富せり。若し此の文を暁むる則んば一代の聖教鏡に懸けて陰り無く、三時の弘経掌に在りて覩る べし。故に先哲尚お分明に之れを判ぜず、況んや予が如き頑愚、焉んぞ之れを解るべけんや。然りと雖も今講次に因んで文に三段を分かち、義に十門を開き、略 して文旨を示さん。

文に三段を分かつとは即ち標・釈・結なり。義に十門を開くとは、第一に一念三千の法門は聞き難きを示し、第二に文相の大旨を示し、第三に一念三千の数量を 示し、第四に一念に三千を具する相貎を示し、第五に権実相対して一念三千を明かすことを示し、第六に本迹相対して一念三千を明かすことを示し、第七に種脱 相対して一念三千を明かすことを示し、第八に事理の一念三千を示し、第九に正像未弘の所以を示し、第十に末法流布の大白法なることを示さん。

第一に一念三千の法門は聞き難きを示すとは、

経(方便品)に曰わく、諸仏は世に興出すること懸遠にして値遇すること難し、正使世に出づるとも是の法を説くこと復難し、無量無数劫にも是の法を聞くこと 亦難し、能く是の法を聴く者は斯の人亦復難し。譬えば、優曇華は一切皆愛楽し、天人の希有とする所にして時々乃し一たび出づるが如し、法を聞いて歓喜して 讃むること乃至一言をも発せば則ち為れ已に一切の三世の佛を供養するなり等云云。応に知るべし、此の中の法の字は並びに一念三千なり。

記の四の末の終りに云わく、懸遠等とは、若し此の劫に准ずれば六・四・二万なり文。

劫章の意に准ずるに住劫第九の減、人寿六万歳の時拘留孫仏出で、人寿四万歳の時拘那含仏出で、人寿二万歳の時迦葉仏出で、人寿百歳の時釈迦如来出づと云 云。是れ則ち人寿八万歳より一百年に人寿一歳を減じ乃至一千年に十歳を減ず、而して六・四・二万等に至る、豈懸遠に非ずや。

縦い世に出づると雖も須扇多仏・多宝如来の如きは遂に一念三千を説かず、大通仏の如きも二万劫の間之れを説かず、 今 、仏世尊の如きも四十余年秘して説かず、豈是の法を説く、復難きに非ずや。既に出興懸遠にして法を説くこと亦難し、豈容易く之れを聞くことを得んや。縦い 在世に生まると雖も舎衛の三億の如きは尚お不見不聞なり、況んや像末の辺土をや。

 故に安楽行品に云わく、無量の国中に於いて乃至名字をも聞くを得べからず等と云云。豈聞法の難きに非ずや。聞法すら尚お爾なり、況んや信受せんをや。応 に知るべし、能く聴くとは是れ信受の義なり、若し信受せずんば何んぞ能く聴くと云わんや。故に優曇華に譬うるなり、此の華は三千年に一たび現わるるなり。

 而るに今宗祖の大悲に依って一念三千の法門を聞き、若し能く歓喜して讃むること乃至一言をも発せば、則ち為れ已に一切の三世の佛を供養するなり。

第二に文相の大旨を示すとは、

文に三段あり。初めに一念三千の法門とは標なり、次ぎに但法華経の下は釈なり、三に龍樹の下は結なり。釈の文に三意を含む、初めには権実相対、所謂但法華 経の四字是れなり、次ぎには本迹相対、所謂本門寿量品の五字是れなり、三には種脱相対、所謂文底秘沈の四字是れなり、是れ則ち浅きより深きにいたり次第に 之れを判ず、譬えば高きに登るには必ず卑きよりし、遠くに往くには必ず近きよりするが如し云云。三に龍樹の下、結とは是れ正像未弘を結す、意は末法流布を 顕わすなり。亦二意あり、初めに正法未弘を挙げ、通じて三種を結す、次ぎに像法在懐を挙げ、別して第三を結するなり。応に知るべし、但法華経の但の字は是 れ一字なりと雖も意には三段を冠するなり。謂わく、一念三千の法門は一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底秘 沈なり云云。故に三種相対は文に在って分明なり。

問う、権実・本迹は是れ常の所談なり、第三の種脱相対の文理如何。

答う、此れ則ち宗祖出世の本懐なり、此こに於いて若し明きらむる則んば諸文に迷わざるなり。故にしばらく一文を引いて其の綱要を示さん。禀権抄三十一に云 わく、法華経と爾前の経とを引き向かえて勝劣浅深を判ずるに当分跨節の事に三の様あり。日蓮が法門は第三の法門なり、世間には粗夢の如く一二をば申せども 第三をば申さず候等云云。

今謹んで案じて曰わく、一には爾前は当分、迹門は跨節、是れ権実相対にして第一の法門なり。

二には迹門は当分、本門は跨節、是れ本迹相対にして第二の法門なり。三には脱益は当分、下種は跨節、是れ種脱相対にして第三の法門なり。此れ則ち宗祖が出 世の本意なり、故に日蓮が法門と云うなり。今一念三千の法門は但文底秘沈と曰う、意此こにあり、学者深く思え云云。

問う、当流の諸師・他門の学者皆第三の教相を以って即ち第三の法門と名づく。然るに今種脱相対を以って名づけて第三の法門となす、此の事前代に未だ聞か ず、若し明文なくんば誰か之れを信ずべけんや。

答う、若し第三の教相は仍お天台の法門にして日蓮が法門には非ず。応に知るべし、彼の天台の第一第二は通じて当流の第一に属し、彼の第三の教相は即ち当流 の第二に属することを。故に彼の三種の教相を以って若し当流に望むる則んば二種の教相となるなり。妙楽の、前の両意は迹門に約し、後の一意は本門に約すと 云うは是れなり。更に種脱相対の一種を加えて以って第三と為す、故に日蓮が法門と云うなり。

今明文を引いて以って此の義を証せん。十法界抄に云わく、四重興廃云云。血脈抄に云わく、四重浅深云云。又云わく、下種三種の教相云云。本尊抄に云わく、 彼は脱、此れは種なり等云云。秘すべし、秘すべし云云。

第三に一念三千の数量を示すとは、

将に三千の数量を知らんとせば須く十界・三世間・十如の相を了すべし。十界は常の如し、八大地獄に各十六の別処あり、故に一百三十六、通じて地獄と号づく るなり。餓鬼は正法念経に三十六種を明かし、正理論に三種・九種を明かす。畜生は魚に六千四百種、鳥に四千五百種、獣に二千四百種、合して一万三千三百種 なり、通じて畜生界と名づくるなり。修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝に過ぎず、人は則ち四大洲、天は則ち欲界の六天と色界の十八天と無色界の四天 となり。二乗は身子・目連等の如し。菩薩は本化・迹化の如く、仏界は釈迦・多宝の如し云云。

三世間とは五陰と衆生と国土となり。五陰とは色・受・想・行・識なり、言う所の陰とは正しく九界に約し、善法を陰蓋するが故に陰と名づくるなり、是れは因 に就いて名を得。又陰は是れ積聚なり、生死重沓す、故に陰と名づく、是れは果に就いて名を得。若し仏界に約せば常楽重沓し、慈悲覆蓋するが故なり。次ぎに 衆生世間とは十界通じて衆生と名づくるなり、五陰仮に和合するを名づけて衆生と曰うなり、仏界は是れ尊極の衆生なり。故に大論に曰わく、衆生の無上なるは 仏是れなりと。豈凡下に同じからんや云云。三に国土世間とは則ち十界の所居なり、地獄は赤鉄に依って住し、餓鬼は閻浮の下、五百由旬に住し、畜生は水陸空 に住し、修羅は海の畔海の底に住し、人は大地に依って住し、天は空殿に依って住し、二乗は方便土に依って住し、菩薩は実報土に依って住し、仏は寂光土に 依って住したもうなり云云。並びに世間とは即ち是れ差別の義なり、所謂十種の五陰不同なる故に五陰世間と名づけ、十種の衆生不同なる故に衆生世間と名づ け、十種の所居不同なる故に国土世間と名づくるなり。

十如是とは相・性・体・力・作・因・縁・果・報等なり。如是相とは譬えば臨終に黒色なるは地獄の相、白色なるは天上の相等の如し。如是性とは十界の善悪の 性、其の内心に定まりて後世まで改まらざるを性と云うなり。如是体とは十界の身体色質なり。如是力とは十界各々の作すべき所の功能なり。如是作とは三業を 運動し善悪の所作を行ずるなり、善悪に亘りて習因習果あり、先念は習因、後念は習果なり。是れ則ち悪念は悪を起こし、善念は善を起こす。後に起こす所の善 悪の念は前の善悪の念に由る。故に前念は習因即ち如是因なり、後念は習果即ち如是果なり。善悪の業体を潤す助縁は是れ如是縁なり。習因習果等の業因に酬い て正しく善悪の報を受くるは是れ如是報なり。初めの相を本と為し、後の報を末と為し、此の本末の其の体究りて中道実相なるを本末究竟等と云うなり云云。

正しく一念三千の数量を示すとは、応に知るべし、玄・文両部の中には並びに未だ一念三千の名目を明かさず、但百界千如を明かす、止観の第五巻に至りて正し く一念三千を明かすなり。此こに二意あり、一には如是に約して数量を明かす、所謂百界、三百世間、三千如是なり。二には世間に約して数量を明かす、所謂百界、千如是、三千世間なり。開合異なりと雖も同じく一念三千なり云云。

第四に一念に三千を具する相貎を示すとは、

問う、止観第五に云わく、此の三千一念の心に在り等云云、一念の微少何んぞ三千を具せんや。

答う、凡そ今経の意は具遍を明かす、故に法界の全体一念に具し、一念の全体法界に遍し。譬えば一微塵に十方の分を具し、一滴の水は大海に遍きが如し云云。 華厳経に云わく、心は工みなる画師の種々の五陰を造るが如し、一切世間の中に法として造らざること無し等云云。

問う、画師は但是れ一色を画く、何んぞ四心を画くことを得んや。

答う、色心倶に画くが故に種々の五陰を造ると云うなり。故に止観第五に云わく、善画は像を写すに真に逼り、骨法精霊の生気飛動するが如し云云。誰か鐘馗を 見て喜ぶと云う可けんや、誰か布袋を見て瞋れると云う可けんや。故に知んぬ、善く心法を画けることを。止観に又三喩を明かす云云。

又二寸三寸の鏡の中に十丈・百丈・乃至山河を現わすが如し。況んや石中の火・木中の華、誰か之れを疑うべけんや。

弘の五の上に心論を引いて云わく、慈童女長者伴を随え海に入り宝を採らんと欲し母より去らんことを求む。母の云わく、吾は唯汝のみあり、何んぞ吾を捨てて 去るや。母其の去らんことを恐れ、便ち其の足を捉う、童女便ち手を以って母の髪を捉えるに一茎の髪落つ、母すなわち放ち去る。海洲の上に至るに熱鉄輪の空 中より其の頂上に下臨するを見る、便ち誓いを発して言わく、願わくば法界の苦皆我が身に集まれと、誓願力を以っての故に火輪遂に落つ。身を捨てて天に生ま る、母に違いて髪を損ずるは地獄の心となり、弘誓の願いを発すは即ち仏界に属する等云云。一念の心中に已に獄と仏とを具う、中間の互具は准説して知るべし 云云。

本尊抄に云わく、数々他面を見るに、或る時は喜び、或る時は瞋り、或る時は平らかに、或る時は貪現われ、或る時は痴現われ、或る時は諂曲なり。瞋は地獄、 貪は餓鬼、痴は畜生、諂曲は修羅、喜は天、平は人なり、乃至世間の無常は眼前に在り、人界に豈二乗界なからんや。無顧の悪人なお妻子を慈愛す、菩薩界の一 分なり、乃至末代に凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具するが故なり〔略抄〕。法華経を信ずる等の文深く之れを思うべし云云。

妙楽云わく、仏界の心強きを名づけて仏界となし、悪業深重なるを名づけて地獄となす云云。既に法華経を信ずる心強きを名づけて仏界となす。故に知んぬ、法 華経を謗ずる心強きを悪業深重と号し地獄界と名づくるなり。故に知んぬ、一念に三千を具すること明きらかなり。

第五に権実相対して一念三千を明かすことを示すとは、

次ぎの文に(開目抄)云わく、此等の経々に二つの失あり。一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せず、迹門の一念三千を隠せり。二には始成と言うが故に 尚お未だ迹を発せず、本門の久遠を隠せり。迹門の方便品には一念三千、二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり〔已上〕。

此等の経々は四十余年の経々なり、行布とは即ち是れ差別の異名なり、所謂昔の経々には十界の差別を存ずるが故に仍お未だ九界の権を開せず、故に十界互具の 義なし、故に迹門の一念三千の義を隠せりと云うなり。

問う、応に迹門方便品は一念三千を説きて爾前二種の失一つを脱れたりと云うべし、何んぞ二乗作仏等と云うや。

答う、一念三千は所詮にして、二乗作仏は能詮なり。今能所並べ挙ぐるが故に一念三千、二乗作仏等と云うなり。謂わく、若し二乗作仏を明かさざる則んば菩 薩・凡夫も作仏せざるなり、是れ則ち菩薩に二乗を具すれば所具の二乗、作仏せざれば則ち能具の菩薩、豈作仏せんや。故に十法界抄に云わく、然るに菩薩に二 乗を具するが故に二乗が沈空尽滅すれば則ち菩薩が沈空尽滅するなり云云。

問う、昔の経々の中に一念三千を明かさずんば、天台、何んぞ華厳心造の文を引いて、一念三千を証するや。

答う、彼の経に記小久成を明かさず、何んぞ一念三千を明かさんや。若し大師引用の意は、浄覚の云わく、今の引用は会入の後に従う等云云。又古徳の云わく、 華厳は死の法門にして法華は活の法門なり云云。彼の経の当分は有名無実なり、故に死の法門と云う。楽天が云わく、龍門原上の土に骨を埋むとも名を埋めじ。 和泉式部が云わく、諸共に苔の下には朽ちずして埋もれぬ名を聞くぞ悲しき云云。若ならば会入の後は猶お蘇生の如し、故に活の法門と云うなり。

問う、澄観が華厳抄八十に云わく、彼の経の中に記小久成を明かす等と云云。

答う、従義の補註三に之れを破す、見るべし。

問う、真言宗の云わく、大日経の中に一念三千を明かす、故に義釈一に云わく、世尊已に広く心の実相を説く、彼に諸法実相と言うは即ち是れ此の経の心の実相 なりと云云。

答う、大日経の中に記小久成を明かさず、何んぞ一念三千を明かさんや、故に彼の経の心の実相とは但是れ小乗、偏真の実相なり、何んぞ法華の諸法実相と同じ からんや。弘一下 に云わく、婆沙の中に処々に皆実相と云う、是くの如き等の名大乗と同じ、是れを以って応に須く義を以って判属すべし云云。守護章中の中 に云わく、実相の名有りと雖も偏真の実相なり、是の故に名同義異なりと云云。

宗祖云わく、爾前迹門の円教すら尚お仏因に非ず、況んや大日経等の諸小乗教等をや。故に知んぬ、大日経の中の心の実相は小乗偏真の実相なることを。

問う、彼の宗の云わく、大日経に二乗作仏、久遠実成を明かす。是の故に弘法大師の雑問答に云わく、問う、此の金剛等の中の那羅延力、大那羅延力、執金剛と は若し意有りや。答う、意無きに非ず、上の那羅延力は大勢力を以って衆生を救う、次ぎの大那羅延力は是れ不共の義なり、謂わく、一闡提人は必死の病二乗定 性は已死の人なり、余教の救う所に非ず、唯此の秘密神通の力のみ即ち能く救療す、不共力を顕わさんが為めに大を以って之れを分かつ云云。義釈九に云わく、 我一切本初等とは将に秘蔵を説かんとするに先ず自ら徳を歎ず、本初は即ち是れ寿量の義なりと云云。

答う、弘法強いて列衆の中の大那羅延を以って二乗作仏を顕わす、実に是れ不便の引証なり、彼の経の始末にすべて二乗作仏の義なし、若し有りと言わば正しく 其の劫国名号等は如何、況んや復法華の中の彰灼の二乗作仏を隠没して余経の救う所に非ずと云うは寧ろ大謗法に非ずや。次ぎに我一切本初とは是れ法身本有の 理に約す、何んぞ今経の久遠実成に同じからんや、証真の云わく、秘密経に云わく、我一切本初とは本有の理に帰す、故に本初と云う云云。妙楽大師の弘の六末 六に云わく、遍く法華已前の諸経を尋ぬるに実に二乗作仏の文及び如来久遠の寿を明かすこと無し等云云。妙楽大師は唐の末天宝年中の人なり、故に真言教を普 く之れを昭覧す。故に知んぬ、真言教の中に記小久成、一向に之れ無し、如何ぞ一念三千を明かすと云わんや、而も彼の宗の元祖は法華経の宝珠を盗み取って己 が家財となすが故に閻王の責めを蒙るなり。

宗祖の云わく、一代経々の中には此の経計り一念三千の珠を懐けり、余経の理は珠に似たる黄石なり、沙を絞るに油なし、石女に子の無きが如し、諸経は智者尚 お仏にならず、此の経は愚人も仏因を種うべし等云云。

第六に本迹相対して一念三千を明かすことを示すとは、

諸抄の中に二文あり。一には迹本倶に一念三千と名づけ、二には迹は百界千如と名づけ、本を一念三千と名づく。初文を言わば次ぎ下に云わく、然りと雖も未だ 発迹顕本せざれば真の一念三千も顕われず、二乗作仏も定まらず、なお水中の月を見るが如く、根無草の波の上に浮かべるに似たり

初文を言わば次ぎ下に(開目抄)云わく、然りと雖も未だ発迹顕本せざれば真の一念三千も顕われず、二乗作仏も定まらず、なお水中の月を見るが如く、根無草 の波の上に浮かべるに似たり云云。

文に法譬あり、法の中の一念三千は是れ所詮なり、二乗作仏は是れ能詮なり、譬の中に水中の月は真の一念三千顕われざるに譬え、根無草は二乗作仏定まらざる に譬うるなり、法譬の四文並びに本無今有および有名無実の二失を挙げて以って之れを判ずるなり。

問う、迹門の一念三千何んぞ本無今有ならんや。

答う、既に未だ発迹せざる故に今有なり、亦未だ顕本せず、豈本無にあらずや、仏界既に爾なり、九界も亦然なり。故に十法界抄に云わく、迹門には但是れ始覚 の十界互具を説き、未だ本覚本有の十界互具を顕わさず、故に所化の大衆も能化の円仏も皆悉く始覚なり、若し爾れば本無今有の失、何んぞ脱るることを得んや 等云云。

問う、迹門の一念三千も亦何んぞ有名無実と云うや。

答う、既に真の一念三千顕われずと云う、豈有名無実と云うに非ずや。故に十章抄に云わく、一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る、爾 前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり等云云。迹門は但文のみ有って其の義なし、豈有名無実に非ずや、妙楽云わく、外小権迹を内大実本に望むるに 即ち是れ有名無実なりと云云。

次ぎに二乗作仏も定まらずとは亦二の失あり。

問う、迹門の二乗作仏何んぞ是れ本無今有なるや。

答う、種子を覚知するを作仏と名づくるなり。而るに未だ根源の種子を覚知せざるが故に爾云うなり。

本尊抄八-二十に云わく、久遠を以って下種となし、大通前四味迹門を熟となし、本門に至り等妙に登らしむるを脱となす等云云。

而るに迹門に於いては未だ久遠下種を明かさず、豈本無に非ずや。而も二乗作仏と云う、寧ろ今有に非ずや。

問う、本尊抄の文は且く久遠下種の一類に約す、何んぞ必ずしも二乗の人ならんや。 答う、天台大師の三種の教相の中の第二化導の始終の時は、三周得道は皆是れ大通下種の人なり、若し第三師弟の遠近顕われ已れば咸く久遠下種の人と成るな り、且く二乗の人の如きは大通覆講の時に発心・未発心の二類あり、若し久遠下種を忘失せざるは法華を説くを聞いて即ち発心するなり、若し其れ久遠下種を忘 失するは妙法を聞くと雖も未だ発心せざるなり。故に玄の六の文に云わく、不失心の者は薬を与うるに即ち服して父子を結ぶことを得、其の失心せる者は良薬を 与うと雖も而も肯えて服せず等云云。籤の六に云わく、本の所受を忘るるが故に失心と曰う等云云。彼の発心の中にも亦二類あり、謂わく、第一に不退・第二に 退大なり、彼の未発心の人は即ち是れ第三類なり。而るに今日得道の二乗は、多分は第二退大にして、少分は第三類なり。豈久遠下種の人に非ずや、古来の学者 斯の旨に達せず云云。

問う、所引の玄籤の文は即ち是れ迹門第九眷属妙中の文なり、迹妙の中に於いて何んぞ本門の事を明かすべけんや。

答う、此れは是れ取意の釈なり、大師言えること有り、未だ是れ本門ならずと雖も意を取って説けるのみと云云。若し爾らずんば何んぞ迹妙の第一、境妙の中に 二諦の意を明かすに尚お本行菩薩道の時を取って以って之れを釈するや。

問う、迹門の二乗作仏を何んぞ有名無実と云うや。

答う、其の三惑を断ずるを名づけて成仏となす、而るに迹門には二乗未だ見思を断ぜず、況んや無明を断ぜんや。

文の九−三十二に云わく、今生に始めて無生忍を得、及び未だ得ざるもの咸く此の謂いあり等云云。既に近成を愛楽すれば即ち是れ思惑なり、未だ本因本果を知 らず、即ち是れ邪見なり、豈見惑に非ずや。十法界抄に云わく、迹門の二乗は未だ見思を断ぜず、迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず、六道の凡夫は本有の六界に住 せず、有名無実の故に涌出品に至りて爾前迹門の無明を断ずる菩薩、五十小劫半日の如しと謂わしむと説く等云云。既に二失あるが故に不定と云うなり、猶お水 中の月を見るが如しとは是れ真月に非ず、故に知んぬ、真の一念三千顕われざるに譬うるなり。而して法体の二失を顕わすなり。

一には本無今有の失を顕わす。玄の七に云わく、天月を識らずただ池月を観ずと云云。不識天月豈本無に非ずや、但観池月寧ろ今有に非ずや。二には有名無実の 失を顕わす。慧心僧都の児歌に曰わく、手に結ぶ水に宿れる月影の有るか無きかの世にも住むかな云云。根無草の波の上に浮かぶに似たりとは、是れ二乗作仏定 まらざるに譬うるなり、根無草とは即ち萍の事なり、故に小野小町の歌に曰わく、わびぬれば身を萍の根を絶えて誘う水あらば往なんとぞ思う云云。

又法体の二失を顕わすなり。一には本無今有の失を顕わす。又小野小町の歌に曰わく、まかなくになにをたねとて萍の波のうねうねおいしげるらん云云。上の句 は即ち本無、下の句は是れ今有なり、学者之れを思え。二には有名無実の失を顕わす。資治通鑑に曰わく、浮とは物の水上に浮かぶが如く実につかざるなり云 云。既に草ありと雖も実無し、豈有名無実に非ずや、法譬の二文符節を合せるが如し云云。

問う、啓蒙の第五−二十八に云わく、未発迹の未の字本迹一致の証拠なり、已に発迹顕本し畢れば迹は即ち本なるが故なり云云。此の義如何。

難じて曰わく、若し爾らば未顕真実の未の字は権実一致の証拠ならんか、その故は已に真実顕われ畢れば権は即ち是れ実の故なり。日講重ねて会して云わく、権 実の例難、僻案の至りなり、若し必ずしも一例ならば則ち宗祖何んぞ予が読む所の迹と名づけて但方便品を誦し、予が誦む所の権と名づけて弥陀経を誦まざるや 等云云。

今大弐莞爾として云わく、此の難太だ非なり、何んとなれば権実本迹ともに法体に約するが故に是れ一例なり、若し其れ読誦は修行に約す、故に時に随って同じ からず、日講尚お修行を以って法体に混乱す、況んや三時弘経を知らんをや、応に明文を引いて彼れが邪謬を顕わすべし云云。

玄の七−三十三に云わく、問う、三世諸仏皆顕本せば最初実成は若為ぞ本を顕わさん。答う、必ずしも本を顕わさず。問う、若し仏に始成・久成あり発迹・不発 迹あらば亦まさに開三顕一・不開三顕一あるべしや等云云。

文の九−十八に云わく、法華に遠を開し竟って常不軽、那んぞ更に近なるや、若し爾らば会三帰一竟って亦応に会三帰一せざるべしや等云云。

文の六−二に云わく、有る人言わく、此の品は是れ迹なり、何んとなれば如来の成道已に久し、乃至中間の中止も亦是れ迹なるのみ。私に謂えらく、義理乃ち然 れども文に在りて便ならず、何んとなれば仏未だ本迹を説かず那んぞ忽ちに預領せん、若ならば未だ三を会せず、已に応に一を悟るべし等云云。此の品とは即ち 信解品なり。

記の九本三十四に云わく、本門顕われ已って更に近ならば迹門会し已って会せざらんやと云云。治病抄に云わく、法華経に亦二経有り、所謂迹門と本門となり、 本迹の相違は水火天地の違目なり、例せば爾前と法華経との違目よりも猶お相違ありと云云。天台・章安・妙楽・蓮祖、並びに是れ僻案なりや、日講如何。

又修行に約して若し一例を示さば、凡そ蓮祖は是れ末法本門の導師なり。故に正には本門、傍には迹門なり、故に予が誦む所の迹と名づけて方便品を読みたまえ り。天台亦是れ像法迹門の導師なり、故に正には法華、傍には爾前なり、故に亦弥陀経等を誦みたまえり、而も亦他人の読誦に異なり、口に権を説くと雖も内心 は実法に違わず云云。豈予が誦む所の権と名づけて弥陀経を読むに非ずや、日講如何。

問う、又啓蒙に云わく、既に二乗作仏の下に於いて多宝・分身を引いて真実の旨を定むる故に未発迹顕本の時も真の一念三千にして二乗作仏も定まれり。然るに 今真の一念三千顕われず二乗作仏も定まらずとは久成を以って始成を奪う言なり。是くの如く久成を以って始成を奪う元意は天台過時の迹を破せんが為なり云 云、此の義如何。

難じて云わく、拙いかな日講、竊盗を行なう者は現に衣食の利あり、何んぞ明文を曲げて強いて己情に会すや。

妙楽の云わく、凡そ諸の法相は所対不同なりと。

宗祖云わく、所詮所対を見て経々の勝劣を辨ずべきなり等云云。上に多宝・分身を引き真実の旨を定むるは是れ爾前の方便に対する故なり。是の故に彼の結文に 云わく、此の法門は迹門と爾前と相対する等云云。

今真の一念三千顕われず等と言うは是れ本門に対する故なり、是の故に未発迹顕本等と云うなり。同じき迹門なりと雖も而も所対に随って虚実天別なり。若し強 いて爾らずと言わば重ねて難じて云わく、一代聖教皆是れ真実ならんや、既に上の文に言わく、一代五十年の説教は外典外道に対すれば大乗なり、大人の実語な りと云云、日講如何。

況んや復久成を以って始成を奪う則んば真の一念三千に非ざること汝も亦之れを知れり。若し実に然らずんば蓮祖何んぞ無実を以って台宗を破すべけんや。

始成正覚を破れば等とは、経に云わく、我実に成仏してよりこのかた無量無辺なり等云云、

是れ即ち爾前迹門の始成正覚を一言に大虚妄なりと破る文なり。

天台云わく云云。

宗祖云わく云云。

四教の果を破れば四教の因破る等とは、広くは玄文第七巻の如し、此の中に十界の因果とは是れ十界互具の因果には非ず、因は是れ九界、果は是れ仏界の故に十 界の因果と云うなり、並びに釈尊の因行を挙げ、通じて九界を収むるなり、是れ則ち本因本果の法門とは此に深秘の相伝有り、所謂文上文底なり、今はしばらく 文上に約して以って此の文を消せん。本因は即ち是れ無始の九界なり、故に経に云わく、我本菩薩の道を行ぜし時、成ずる所の寿命今猶お未だ尽きず等云云。天 台云わく、所住に登る時已に常寿を得等云云。既に是れ本因常住なり、故に無始の仏界と云う、本因猶お常住なり、何に況んや本果をや。故に経に云わく、我実 に成仏してより已来甚大久遠にして寿命無量阿僧祇劫なり、常住にして不滅なり云云。既に是れ本果常住なり、故に無始の仏界と云う。本有常住名体倶実の一念 三千なり。故に真の十界互具、百界千如、一念三千と云うなり

次ぎに迹門百界千如の文とは、

本尊抄八−十八に云わく、迹門は始成正覚の仏、本無今有、百界千如を説く、本門は十界久遠の上に国土世間既に顕わる云云、

迹門は未だ国土世間を明かさざる故に百界千如に限るなり、而るに迹門方便品に一念三千を説くと云えることは正に必ず依あり、故に与えて爾云うなり。若し 奪って之れを論ぜば迹門は但之れ百界千如なり。

本尊抄に云わく、百界千如と一念三千と差別如何。

答えて曰わく、百界千如は有情界に限り、一念三千は情・非情に亘る云云。

第七に種脱相対して一念三千を明かすことを示すとは、

今文底秘沈と言うは上に論ずる所の三千は猶お是れ脱益にして未だ是れ下種ならず、若し其れ下種の三千は但文底に在るが故なり。

問う、何れの文底に在りとせんや。答う、古抄の中に種々の義あり、

有るが謂わく、如来如実知見等の文底なり、此の文能知見を説くと雖も而も文底に所知見あるが故なり。

有るが謂わく、是好良薬の文底なり、是れ即ち良薬の体、妙法の一念三千なるが故なり云云。

有るが謂わく、如来秘密神通之力の文底なり、是れ則ち文面に本地相即の三身を説くと雖も文底に即ち法体の一念三千を含むが故なり云云。

有るが謂わく、但是れ寿量品の題号の妙法なり、一念三千の珠を裹むが故なり。

有るが謂わく、通じて寿量一品の文を指す、是れ則ち発迹顕本の上に一念三千を顕わすが故なり。

有るが謂わく、然我実成佛已来の文なり、是れ則ち秘法抄に此の文を引いて正しく一念三千を証し、御義口伝に事の一念三千に約して此の文を釈するが故なり云 云。

有る師の云わく、本因妙を説くに但三妙を明かす、所謂我本行は是れ行妙なり、菩薩道は是れ位妙なり、所成寿命は是れ智妙なり、

故に天台云わく、一句の文三妙を証成す等云云。

然るに妙楽の云わく、一句の下は本因の四義を結す云云。

是れ即ち智には必ず境ある故なり。故に知んぬ、文面は但智行位の三妙なりと雖も文底に境妙を秘沈したまえり、境妙は即ち是れ一念三千なり、故に爾云うな り。

今謂わく、前来の諸説は皆是れ文の上なり、不相伝の輩焉んぞ文底を知らん、若し文底を知らずんば何んぞ蓮祖の門人と称せんや。

問う、当流の意如何。

答う、此れ一大事なり、人に向かって説かず云云。

重ねて問う、如何。

答う、聞いて能く之れを信ぜよ、是れ憶度に非ず。師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。応に知るべし、後々の位に 登ることは前々の行に由ることを云云。

問う、正しく種脱相対の一念三千とは如何。

答う、此れ即ち蓮祖出世の本懐、当流深秘の相伝なり、焉んぞ筆頭に顕わすことを得んや。然りと雖も近代他門の章記に竊かに之れを引用す、故に遂に之れを秘 すること能わず今亦之れを引く。輪王の優曇華、西王母が園の桃、深く応に之れを信ずべし。 本因妙抄に云わく、問うて云わく、寿量品の文底一大事と云う秘法如何。

答えて曰わく、唯密の正法なり、秘すべし、秘すべし、一代応仏の域を引かえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せ しむる事を脱益の文の上と申すなり、文底とは久遠実成名字の妙法を余行に渡さず直達正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経是れなり云云。

問う、久遠名字の妙法とは其の体如何。

答う、当体抄・勘文抄等往いて之れを勘うべし云云、今且く之れを秘す云云。

第八に事理の三千を示すとは、

問う、事理の三千其の異なり如何。

答う、迹門を理の一念三千と名づく、是れ諸法実相に約し之れを明かす故なり。本門を事の一念三千と名づく、是れ因果国に約して此れを明かす故なり。若し当 流の意は迹本二門の一念三千通じて理の一念三千と名づけ、但文底独一の本門を以って事の一念三千と名づくるなり、是れ当家の秘事なり、口外すべからざる者 なり。

問う、迹本二門の一念三千何んぞ通じて理の一念三千と名づくるや。

答う、此に二意あり、一には倶に理の上の法相の故に、二には倶に迹の中の本迹なる故なり。

本因妙抄に云わく、一代応仏の域を引かえたる方は理の上の法相なれば一部倶に理の一念三千なり云云。

又云わく、迹門を理の一念三千と名づけ、脱益の法華経は本迹倶に迹なり、本門を事の一念三千と名づけ、下種の法華経は独一の本門なり云云。

本尊抄に云わく、一念三千殆ど竹膜を隔つ等云云。

迹本事理の三千殊なりと雖も通じて理の一念三千と名づく、故に竹膜を隔つと云うなり。是れ則ち文底独一本門事の一念三千に望めるが故なり云云。

問う、文底独一本門を事の一念三千と名づくる意如何。

答えて云わく、是れ唯密の義なりと雖も今一言を以って之れを示さん、所謂人法体一の故なり。

問う、証文如何。

答う、且く一文を引かん、仰いで之れを信ずべし。

御義口伝に云わく、自受用身即一念三千。

伝教の云わく、一念三千即自受用身云云。

御相伝に云わく、明星が池を見たもうに日蓮が影即ち今の大曼荼羅なり云云。

本尊抄に云わく、一念三千即自受用身云云。

報恩抄に云わく、自受用身即一念三千云云。

問う、本尊・報恩両抄の中に未だ此の文を見ざるは如何。

答う、是れ盲者の過にして日月には非ず云云。応に知るべし、一代の諸経は但是れ四重なり、所謂爾前・迹門・本門・文底なり。此の四重に就いて三重の秘伝あ るなり。謂わく、爾前は未だ一念三千を明かさず、故に当分と名づけ、迹門は即ち一念三千を明かす、故に跨節と名づく。此れは是れ権実相対第一の法門なり。 迹門に一念三千を明かすと雖も未だ発迹顕本せざれば、是れ真の一念三千に非ず、故に当分と名づく。正しく本門に真の十界互具、百界千如、一念三千を明か す、故に跨節と名づく。此れは是れ本迹相対第二の法門なり。脱益の本門文上に真の一念三千を明かすと雖も、猶お是れ理の上の法相、迹の中の本なるが故に通 じて理の一念三千に属す、故に当分と名づく。但文底下種、独一本門、事の一念三千のみを以って跨節と名づく、此れは是れ種脱相対第三の法門なり。学者若し 此の旨を得ば釈尊一代五十年の勝劣、蓮祖の諸抄四十巻の元意、掌中の菓の如く了々分明ならん。

第九に正像未弘の所以を示すとは、

文に云わく、龍樹・天親は知って而も弘めたまわず、但我が天台智者のみ之れを懐けり文。

文を分かって二となす、初めに通じて三種を結し、次ぎに但の下は別して第三を結するなり。初めに通じて結するとは、龍樹・天親内鑒冷然なりと雖も而も外適 時宜の故に正法千年の間三種倶に之れを弘めざるなり。故に本尊抄に云わく、問う、龍樹・天親は如何。答う、此等の聖人は知って之れを言わず、或は迹門の一 分之れを宣べて本門と観心とを云わずと云云。龍樹・天親は三種倶に之れを弘めず、故に言わずと云うなり。然りと雖も若し迹門に於いては一念三千を宣べずと 雖も或は自余の法門を宣ぶ、故に一分之れを宣ぶと云うなり。若し本門と観心とに於いては一向に之れを宣べざる故に云わずと云うなり。本門と言うは即ち是れ 第二なり、観心と言うは即ち是れ第三なり、文底は本是れ直達正観なるが故なり。

別して結すとは、天台は但第一第二を宣べて而も第三を宣べず、故に之れを懐くと云うなり。

問う、天台は即ち是れ迹門の導師なり、故に但迹門の理の一念三千を宣ぶ、故に治病抄に云わく、一念三千の観法に二つあり、天台・伝教の御時は理なり、今の 時は事なり、彼は迹門の一念三千、是れは本門の一念三千、天地遥かに異なり云云。既に彼は迹門理の一念三千と云う。故に知んぬ、但第一を宣べて第二を宣べ ず、何んぞ第一第二を宣ぶと云うや。

答う、大師仍お第一第二を宣ぶるなり、若し第二を宣べざれば則ち一念三千其の義を尽くさざる故なり。

十章抄に云わく、止観に十章あり、大意より方便までの六重は前の四巻に限る、此れは妙解迹門の意を宣べたり、第七の正観十境十乗観法は本門の意なり、一念 三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る略抄。但像法迹門の導師なるが故に第一を面となし第二を裏となすなり。故に本尊抄に云わく、像法の 中末に観音・薬王は南岳・天台と示現し、迹門を以って面と為し、本門を以って裏となす、百界千如、一念三千其の義を尽くすと雖も但理具を論じて事行の南無 妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊未だ広く之れを行なわず等云云。若し治病抄の文は、今日迹本二門面裏異なりと雖も通じて迹門理の一念三千と名づくる なり。

故に本因妙抄に云わく、脱益の法華経は本迹倶に迹なり等云云。

本尊抄に云わく、迹を以って面となし、本を以って裏となす、一念三千其の義を尽くすと雖も但理具を論ずる等云云、

但論理具の文、天台・伝教の御時は理なりの文、之れを思い合わすべし、

故に知んぬ、彼は迹門の一念三千と云うは面裏の迹本倶に迹門と名づくるなり云云。

若し爾れば天台は第一第二を宣ぶること文義分明なり、而も未だ第三を弘めず、

故に本尊抄に云わく、事行の南無妙法蓮華経の五字七字並びに本門の本尊未だ広く之れを行なわず等云云。

問う、天台、第三を弘めざる所以は如何。

答う、大田抄に云わく、一には自身堪えざる故に、二には所被の機なきが故に、三には仏より譲りあたえざるが故に、四には時来たらざるが故に云云。

第十に末法流布の大白法を示すとは、

問う、正像未弘を結する其の元意如何。

答う、此れ即ち末法流布を顕わさんが為めなり、今且く前の四故に対し更に末法の四故を明かす。

第一に自身能堪の故に、

本尊抄に云わく、観音・薬王等又爾前迹門の菩薩にして本法所持の人に非ず、末法の弘法に足らざる者か云云、

本化の菩薩は既に本法所持の人なり、故に末法の弘法に堪ゆるなり。

御義口伝上終に云わく、此の四菩薩は本法所持の人なり、本法とは南無妙法蓮華経なり云云。

太田抄に云わく、地涌千界末法の衆生を利益すること猶お魚の水に練れ鳥の虚空に自在なるが如し云云。

第二に所被の機縁に由るが故に、

立正観抄に云わく、天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如し、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり云云。

熟脱に渡らず直に下種の機縁なり、故に直機と云うなり。寧ろ文底の大法を授けざらんや。

第三に仏より譲り与うるが故に、

本尊抄に云わく、所詮迹化他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以って授与すべからず、末法の初めは謗法の国悪機なるが故に之れを止め、地涌千界の大菩薩を 召し寿量品の肝心妙法蓮華経の五字を以って授与せしむるなり云云。

血脈抄に云わく、我が内証の寿量品とは文底本因妙の事なり云云。

問う、仏、迹化他方を止むる証文は如何。

答う、即ち是れ涌出品の、止善男子の文是れなり、此の文但他方のみを止むるに似たりと雖も義意は即ち亦迹化を止むるなり、古抄の中種々の義ありと雖も之れ を挙ぐるに遑あらず、故に且く之れを略す

問う、仏、迹化他方を止めて但本化を召す所以如何。

答う、天台已に前三後三の六釈を作り、之れを会して末法に譲る、仍お未だ明了ならず。故に今謹んで他方本化の前三後三、迹化本化の前三後三の十二の釈を作 り分明に之れを会せん。

問う、此の義前代未聞なり、若し明証無くんば誰人か之れを信ぜんや。

答う、今一一に文を引かん、何んぞ吾が言を加えんや。

問う、若し爾れば他方本化の前三後三の其の文如何。答えて曰わく、

一には他方は釈尊の直弟に非ざるが故に、嘉祥大師の義疏第十の巻に云わく、他方は釈迦の所化に非ず等云云。

二には他方は任国不同の故に、天台大師文の九に云わく、他方は各々自ら己が任あり、若し此土に住せば彼の利益を廃せん等云云。

三には他方は結縁の事浅きが故に、

天台大師又云わく、他方は此土に結縁の事浅し、宣授せんと欲すと雖も必ず巨益なからん云云。

一には本化は釈尊の直弟なるが故に、天台云わく、是れ我が弟子応に我が法を弘むべし文。

二には本化は常に此土に住するが故に、

経に曰わく云云、

太田抄に云わく、地涌千界は娑婆世界に住すること多塵劫なり云云。

三には本化は結縁の事深きが故に、

天台云わく、縁深広なるを以って能く此土に遍じて益す等云云。

他方と本化との前三後三畢んぬ。

問う、迹化と本化との前三後三其の文如何。答えて曰わく、

一には迹化は釈尊初発心の弟子に非ざるが故に、太田抄に云わく、迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子に非ず等云云。

二には迹化は功を積むこと浅きが故に、

新池抄に云わく、観音・薬王等智慧美じく覚ある人々なりと雖も、法華経を学ぶの日浅く末代の大難忍び難かるべし、故に之れを止む等云云略抄。

三には迹化は末法の利生応に少なかるべきが故に、

初心成仏抄に云わく、観音・薬王等は上古の様に利生有るまじきなり、されば、当世の祈りを御覧ぜよ、一切叶わざる者なり等云云略抄。

一には本化は釈尊初発心の弟子なるが故に、

観心本尊抄に云わく、地涌千界は釈尊初発心の弟子なり等云云。

二には本化は功を積むこと深きが故に、

下山抄に云わく、五百塵点劫より一向に本門寿量の肝心を修行し習いたもう上行菩薩なり等云云。

三には本化は末法の利生応に盛んなるべきが故に、

初心成仏抄に云わく、当時は法華経二十八品の肝心たる南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まり利生得益あるべし、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり等云 云。

迹化本化の前三後三の明文見るべし。

第四には時已に来たるが故に、

経に曰わく、後の五百歳の中に広宣流布す云云、

撰時抄云云、

当体義抄に云わく、凡そ妙法五字は末法流布の大白法なり、地涌千界の大士の付嘱なり、是の故に天台・伝教は内鑒して而も末法の導師に之れを譲りて弘通した まわざるなり。

畢んぬ

享保十乙巳三月上旬大石の大坊に於いて之れを書す

                     六十一歳

                     日 寛(花押)



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