富士宗学要集第四巻
 
申状見聞私 日我述記 
 一 天奏と者大裏への殻状成る間云ふ爾か也、天と者万民を為し地と国王を為す天と義也、又王は天人の果戒にひとしき故に云ふ爾か、或は又約する官級之次位に義也、奏はすゝむる也平生の天奏書は伝奏と書く也不奏せ直に以て人を伝る故也、於て是れに一重二重の習ひ有り之れ、此の六通の中に一二三四の四通は王城への天奏也、五六は将軍家への伝奏也、惣じて云ふ時は何も申し状也、如き此くの奏聞の由来は且つ者重し若人不信之掟を且つ者依る若善比丘之誡になり自他為め罪障消滅之也。

一 於て文章に者は惣内●外典共に其の規則可し有る之れ、或は履み韻を調へ声を或は対句帯句反り点其の外置き字送くり字てにをは等の習ひ不る輙ら題目也、先つ文章に八筆八躰八対と云ふ事有り之れ、八筆は序策移檄章巻書啓是れ也不調へ声を不蹈ま韻を又願文表白雑序等也、八躰は詩賦銘文頌讖弔誄是れ也調へ声を履む韻を也、又無きを韻声之沙汰曰ふ散語●散文●経史窓等是れ也、蹈む韻を々語と云ふは●賦等是也、惣●四六の文章雑筆の躰とて習ひ多し之れ、雑序願文奏状解状勅語勅答表白等は皆雑筆の内也、十三の兀則有り之れ発句壮句緊句長句傍句隔句、隔句に六有り之れ謂く経隔句・重隔句・疎隔句・密隔句・平隔句・雑隔句・漫句・送句已上十三也事繁き間不書か之れを入り文道に可し習ふ之れを、此の申状は奏状也雑筆の内也故に必ず不蹈ま韻を不調へ声を、雖も然りと自然に他平・々他等の対句有り之れ定まる処の経文釈義は不及ば改声に、若し有ら代字者ば対句の処に他平・々他之心遣ひ尤も也、假令ひ三(平也)時の対の四(平也)依、天地の対の水火等の類也不及ば改むるに、又(他也)正(他也)路の対の(平也)邪途、神術の対の仏(平也)威等は是れ用ひ別字を替る声を也、取り分け専ら六の申状に有り平他之心得、五の申し状には対句一言も無き之れ間無し其の沙汰、四の申状も対句希也、三の申状対句多し之れ大涯平他々平の沙汰有り之れ、一二の申状準す之れに若又無く●他平而も不る苦ら也被る置か則きは置く之れを不る被れ置か則きは無し其の沙汰、上の句、下の句のをはりの字の声をかゆる也但可き依る処に也、此の申状の詞の中間強声とゝのへず可き見合はす也、其の外願文・勧進帳・諷誦・雑序・卒都婆等皆此の類也、声の有無任す心に対句には声をかゆるも有る之れ也、詩・偈・頌・賦等は毎に可き調ふ韻声を也。

一 日要申し状 日要上人縁起の事並に申状奏聞由来の事、人王百四代後花園院伏見重仁の天王と申す、将軍は京都当代の六代目左大臣贈太政大臣義教普光院殿也、依り系図に不同可し有る之れ、鎌倉は当代の五代目左馬頭従四位下持氏長春院殿の御代、永享八年丙辰九月十六日辰の時誕生也、生所は九●日向国細島也、在名は中村、氏は藤原也、二才にて御母上にをくれ・をば養にて御座す也、凡そ似たり釈尊の例に(云云)、妙谷寺の脇坊蓮光坊日慮と云ふ人小師にて御座す也、新発意名は要学、所化名は三河阿闍梨、坊号は惣持坊、於て細島に御建立す本要寺を、凡そ於て都鄙に無き其の隠れ諸宗之兼学絶し此倫を当家之信行越へたり諸人に、誠に以て採菓拾薪之行躰は者銘し求法之肝に、情存妙法之信力は者消す憶持之心を台当両家之深旨無く残る処真俗二道之奥義莫き不る●達せ而已、学頭坊日朝に値ひ給ひ如影随形の奉公師孝の一段伝聞する処更に非凡慮之境界に、朝両師並に本承坊日亟有り同道題目修行に所々弘道あり、殊に図子山本蓮寺建立の時は要上自身堀をほり木をうえ御行躰不及ば言舌に、其の外本永寺本伝寺等皆是れ要上の御建立也、平僧の御時度々の登山妙本寺御住の後九州へ二度之下向已上八度也、中古本寺と与九州依つて仏法相論に有り不和の儀、此の時朝要並に財光寺日守有つて登山日安の御代に本末和合す文明九年丁酉年也、是れ則要上の御執持の故也、其の後学頭日朝本蓮寺居住の日長享元年丁未日要は学頭坊相続也、然るに長享元年丁未七月廿二日日安上人御円寂七十五才の御時也、妙本寺の初頭職日信上人へ御相続也、同年依つて有る其の聞へ霜月十五日日目忌の座敷にて為に御弔の使僧可き有る登山談合也、其の時トダカの浄智坊と云ふ人老僧にて卒爾に物を云ひ出す人也、然る間進み出て云く且つ者為め日安上人御弔の且つ者為学頭相続之披露の本蓮寺日要登山可しと然る(云云)、日朝日守も此の義尤も也可しと有る登山(云云)、依て之れに則ち長享元年立ち日向を同く二年に妙本寺に登山也、長享二年過きて延徳元年己酉二月十七日、日信上人六十四才にて御円寂也、

日要此の時迄有り住山九●帰国のために船本迄下り玉ふ御円寂可き有る之れ其の聞え依つて有るに之れ妙本寺へ帰参す、衆檀の云く発頭絶へば学頭と云ふ従り上代之御掟有り之れ幸に学頭登山の上は者可しと有る御住(云云)、然る間従り其の年妙本寺に御住也五十四の御時也、其の後明応六年丁巳三月妙本寺を御出て同く五月堺に着し同く八年己末三月十九日有り参内申し状二通挙げ玉ふ同く廿四日の御書き出し于に今妙本寺に有り之れ、申し状は他門(本能寺僧也)法華僧大林坊日鎮之筆也、一の申状三通書き之れを一通は大裏へ一通は当寺へ一通は学頭坊所持也、内々の執り成し乗光坊、奏聞の奏者は中の御門殿也、(調御寺衆)乗光坊は後帰し当門に堕落●号す(深見与三郎力叔父父也)寂珍と今の大黒屋(名字うるしはら也)孫二郎か亡父也、于時常住院日忠は尼崎門徒の大学匠道心者也、日要天奏の時参内の後於り寺縁下り玉ふ処を足を取つていたゞき玉ふ有る辞退間ころび給ふ也、其の後日要を請待あるに弟子達数奇の座をかまへ茶の湯をわかし唐絵を懸け花を立てきら●●敷く結構す、日忠見て之れを悉く取り除け一反の題目を懸け伊勢花瓶に樒花を一本さし折て指し立て、弟子を集めて諌めて曰く抑一天下一の道心者信心無雙の日要に浅間敷く名聞利養の憂世の振舞をみられ無道心無心無志の法華僧哉と、被ん思は事誠に以て三世の恥辱一身の瑕瑾也、世間の政道にさへ茅茨不剪ら衣服に無きは文正直の信義也、

何に況や質直意柔●の本因妙名字即の行者が耽り世間の名聞に失はん仏法之志を哉於て真実の朋友に者偽之荘厳無益也(云云)、乍ら他門道心志神妙也、似玉抄と云ふ経の書其の外多の聖教日忠の作有り之れ彼の申状も有る之れ也、又其の時の御書き出しに計上款状二通被れ献ぜ候とあり、款はたゝくと読む也、又いたむ共読む歎く義也●款同字也(云云)、歎字とは別也、九●へ奏聞の次でに御下向有つて登山の時於て四国之沖に値ひ海賊に書き出しを被れ奪ひ取ら給ふ、又上洛有つて此の由遂げ奏聞を重ねて書出を被る下た其の本于今有り之れ、然るに文亀二年迄学頭坊別に無し之れ、明応七年戌午学頭日朝円寂也、存命の内兼ねて日要人雖も相続し玉ふと妙本寺に住し玉ふ故其の後者発頭学頭を日要一人にて持ち玉ふ也、又日朝学頭坊異見分也、日朝の円寂の次の年の天奏也、其の次でに従り堺日向へ御下向也、従り日向御登山の時財光寺日学も登山あり、其の時細嶋於て本要寺に顕本寺の住本寿坊日杲へ学頭相続也、其の比(日朝建立飯田左エ門太夫要久旦那也藤原氏名乗は●袴)本永寺有つて再興号し学頭坊と本蓮寺をば学頭の一筋として勤行の役者可き得其の心を者也と置き文を残し玉へり、日杲世出の達者殊に当家の法門於て九●に日要弟子分の中に第一也其の外学者と謂ひ信心と謂ひ真俗亦無し不足、爰を以て文亀二年壬戌八月時正に譲状をあそばし日学を為て証人と惣門中へ披露有り之れ其の後注進引付無く異論被る捧け処也、然る間上人は日郷上人の御時日伝牛王丸と申して御若年也依て之れに九●の薩摩阿闍梨日●、房州太輔阿闍梨日賢、(妙顕寺是也)山城阿闍梨(中にも日明代官分と●妙本寺へ居住也)日明真俗異見也、

中にも日賢は妙本寺建立の檀那佐々宇左衛門尉が弟也依つて之れに日伝の小師也然る間当寺の学頭職を被る進せ分也、然る処に日伝御成人の後色々対●妙本寺に有り不儀依つて之れに不和と(云云)、号●遠本寺と長狭河崎に寺于に今有り之れ学頭の時七ケ寺の末寺を従り妙本寺付け玉ふ也不和の後或は断絶し或は妙本寺に帰伏す今の上総の本乗寺、下沢の妙勝寺等七ケ寺内也、其の後学頭断絶●而(法頭共法燈共書也異形也)発頭一人●両役を兼ね玉ふ也、日永上人の御代に任せ上代之化儀学頭坊を再興し其の時以て日朝を学頭と成し玉ふ、節々登山五三年宛住山也以て学頭之節目を下沢を知行也然る間下沢の事は日朝中興也依て之れに日要も下沢に別●よしみを残し玉へり、日朝の時より九●に学頭職在国也、上代又何事より起るぞと云ふに於て身延山久遠寺に興上発頭の時、民部阿闍梨日向を以て学頭とすべき由南部の入道所存也、然る処に日向謗法の故南部亦同す之れに爰を以て学頭職を取り放し玉ふ後には興上御離山有り之れ、上々代も如く此く学頭の義定る処也、当代も発頭と申すは妙本寺の上人学頭は本永寺日寿也、日是迷乱の根本は此の両役人と云ふ事を不知案内にして定善寺を初頭と得心本永寺を学頭と思はれたり、其の文躰有り之れ于今数通日我所持す之れを依て之れに学頭は劣るべしと云ふ事を云ひ出し玉へり、日要上人其の上日永已来の置文妙本寺の御大事の箱に御座候には発頭とは妙本寺の上人学頭は日朝の節目と(云云)、抑初頭として我が事をさへ不る知ら外道天魔争でか本末の仏法を可し治む哉、後日是還俗謗法更に以て無き余儀也事多間略す之れを、既に而永正十一年甲戌房州屋形里見太郎上総介源義通為い大将と舎弟左衛門佐実氓為し次将と六月九日北郡に打ち入り妙本寺を為す陣所と日要御病気の故に同く九月下沢に御遷り同く十一月十六日七十九にて御円寂なり、

次の年の三月より妙本寺を取り要害に実汪瘻纐轣A東関九●に授法学法百余人の弟子分有り之れ日我も六才の時(長友大炊動阿部安治と云也阿部貞任か流也幕の文は亀の甲の中に長の字也日目御家の紋も亀の甲也)慈父要甘以て書状を様躰申し上る間要賢と云ふ名を絵はり於て九●に者最後の弟子分也、日我辰年辰時九月十六日に生れたり二才よりおば養ひ也、乍ら恐れ要上の相好を移し申す由要甘申し上ぐる処に有り御悦喜守り本尊等下し賜る、式部卿後には要任坊日長と云ふ人に御伝語有り之れ彼の新発意可し為る法器之人と、御文に又をとごくにまさると云ふ御物語り有り之れ(云云)要甘常々対●日我に此の雑談有り之れ更に非る当座之虚言に而已、天奏の時本門寺日要と名乗り玉ふ其の故は当家の惣寺号也何の所も本門の寺なるべし、爰を以て名乗り給ふ也、別●云ふ時は久遠本門両寺一寺也、身延池上両けの相承是れ也、中にも血脈は久遠常住の寺に有り之れ云謂く日目大石相承是れ也有り秘伝追て可し聞く、従り天庭要上へ官位可き有る免許由勅定也、当門家有り子細諸宗流布の間は謗法同座之官位不る進ま之れに故に任せて上代に上人号を名乗り給へり僧都已上の官級にのぼり給はず可き習ふ事也略す之れを。


入文下、於て書状に必ず有り標釈結、謂く日蓮聖人と云ふより日目上人の申状と云ふ迄は標也、右謹と云ふより皆以て令る符合せ者也と云ふ迄は釈也、望請と云ふより下は結也、標の段に正法と謗法とをあげ釈の段に其の正法謗法の由来を宣べ結の段に正法謗法の邪正を結する也、三処共に法門は一箇条也仮令は挙ぐると名を釈すると躰を名躰を結ぶとの不同あり(五通の申状を指也)余は準す之れに、惣●書礼の法に至りては尊敬の方には首尾に書き実名を或は首計り又尾計りにも書く、恐惶謹言、恐々謹言とはか惶ずして某し謹言、或は誠惶誠謹て言上或は言上如し件のなどと書く也、大躰始終共に同様に書く也平生の文には恐々謹言と書く日安同前也、五六の申状是れ也俗の文章にも至りて敬ふ人には実名を書いて下に恐惶謹言と書く譬へば●●なのり也恐惶敬白などと書く也、天庭奏聞の申状には候と云ふ字不る書か也替字には也と云ふ字を用也、奏状の時上人号の人は四位五位の書礼也、書き出しは蔵人弁官より出る也宛所は可し習ふ之れに。
△日蓮上人とは日蓮の二字大切也以て浅智を●量り以て不信を不可ら知る之れを、雖も載すと短筆に九牛か一毛も不可ら当る正意に譲る大才深智正信法器之仁に処也、乍ら去り奉る付け信を処経文解釈高祖の御定判を本として日我料簡す之れを。

先そ日の字の才学の事、一に(日の最中也)南閻浮提之内日本国に御出世有り之れ約●国土の名称仏を能忍と申すが如し、二に吾が国の宗廟当宗の氏神を日神、天照と申す依て之れに爾か也、三に娑婆有縁の教主釈尊を日種と申し異名を号す恵日と是れをかたどりて爾か也、四に日は其の色赤し心の臓に当る蓮は草木の内也其の色青し肝の蔵に当る末世当今の一切衆生のために仏法の肝心と云ふ意を以て日蓮と申す也、五に於て仏法に爾前迹門本門有り之れ此の中に爾前権教は大小不定に●無き得益間此す無きに大小の星の光り、迹門は円融に●一虚一実也、一実開会の方を此し満月に覆本の方を此す半月に、本門は三世常住に●発迹顕本なり利益広大なり常住不変なり光明赫々の日輪に此す故に本門の法主にて御座せば爾か也、六に日の字の五点は即五大也されば算道等にも以て是れを肝要とす従り天日の字降り下るを見て之れを算を作る也、是れ即五大五形九厄也九々八十一の算勘皆収れり日の字に是れ世間の沙汰也、於て仏法に中にも本門の家の本有の五大と者妙法蓮華経の五字也五字則日の字也、故に本門下種要法の妙法蓮華経の主にて御座す間爾か也、此の五点と者曰以て図を可き知る之れを也、

七於て末代に謗法の大敵に向ひ給ふ時無明と法性との軍也、於て世間に軍敗に以て九字を為す本尊と中にも摩利支天を為す正躰と、摩利支天と者日天の眷属団取也臨兵闘者皆陳列在前の九字の中に中央の皆の字摩利支天に当る也皆の字は日をたくらぶると書く也是れ日天の応作なるが故也、本門久遠の釈尊の応作として末法濁悪の強敵に向ひ玉ふ間例●之れに日の字を用る也、此の段他宗の軍敗の沙汰の筋にあらず本門の日天其の眷属のまりし天と可き得心也、八に日輪は住●虚空を遊行あり天地の万物をてらし玉ふ也、本門の法主亦寂光本有の虚空に住●而も十万三世の利益凡聖の化度有る之れ故に爾か也、九に高祖上行菩薩と●於て在世に付属を受け給ふ上行火大也のぼりゆくと書けり、別躰の地涌の五大の時火を司る也日と火と同し之れ故に爾か也、火と日と一躰なる事日輪既に火珠所成の宮殿也、其の上経に云く娑婆世界此の界の虚空の中に住す矣、上行住所此の界の中の虚空なり知んぬ日輪たることを、以て此の文を高祖を日輪一躰と申す也、十に日天は従り東出で西にめぐり玉ふ也本門の仏法可き西漸す表事を以て法主を日と申す也、十一に於て仏法に境智・定恵・事理等の沙汰有り之れ於て世間に是を陰陽・天地・父母・日月等と分くる也、

本地難思の境智と者高祖にて御座す也其の智の徳・父の徳・天の徳を日と云ひ境の徳・母の徳・地の徳を蓮と申す経に如日月光明○冥矣、幽は天・幽玄とをきを指す、冥は地冥莫の深きことを云ふ也隋縁・不変・真俗二諦・日神・月神・天照・八幡等可し思ふ之れを、十二に高祖は午の年にて御座す午は南の最中也、離中断と云つて火に取る也、姓は木姓にて御座す木は東に当る也、爰を以て日本・東国・東条に御出生有り之れ東の字は木に日をはさめり故に従り東回る南に発心修行の表事の四門可し思ふ之れを故に日と申す也木は蓮に取る也、十三に於て末法に折伏摂受の二門有り之れ是れ入て宗旨に本門の家にて沙汰する処の摂折也、折は火の徳焼く物を是れ即日輪也、摂は水の徳浄む物を是れ蓮也、依て之れに爾か云ふ、高祖は破軍星に当り玉ふ是れ折伏の大将なる故也一宗一門の中を収むるは摂受也、十四に高祖御老母様童名梅菊女七才の時三月廿四日の夜の依り霊夢に其の後三国太夫与有り契約又東馬の権の頭とも申す也、其の後高祖を御懐胎の初め託胎の時有り霊夢依り之れに日蓮と申す也於て此の重に有り相伝追て可し聞く、十五に法花本門の戒壇大日蓮華山也例せば智●を天台と云ひ伝教を根本大師と申す類也、依正一躰の道理也、於て此の重に有り相伝追て可し聞く、十六に於て仏に三身三徳・因の三諦三観・果の三身也、本門の家に入りて表する三身を三光天子是れ也、謂く星は大小不同にして応仏応身也、月は境母法身也日は智父報身也、今日文の上の寿量の教主既に若し従へば別意に正く在る報身に也、如来呪量と題す文の底の寿量尚以て報身為本報中輪三の三身也、法久成の法なるが故に付す久成の人に可し思ふ之れを、爰を以て三身即一の無作三身の報仏にて御座す故に日と申す也、御定判に云く自我偈は此れ文字の数五百十字也一一の文字日輪となる日輪変釈迦如来と成ると(云云)、自我偈と者過去の自我偈也過去の自我偈と者文の底の主師親・人報一個の本尊の事也、釈迦と者自受用報身名字本仏の事也是れ即高祖の御事也、於て此の重に日の字の出処の習ひ有り之れ、日本の三種の神祇等可し思て之れを追て可し聞く、十七に於て日輪之本地に種熟脱の三有り之れ脱の日は悲華経の五百大願の内の卅二の願に曰く設ひ我れ得んに仏を我れ成り日天子と破り迷闇を度せん衆生を若し不ん爾ら者不取ら正覚を矣、此の時は脱仏の垂迹也、天台の釈に日天子観・月天子勢矣、日天は観音・月天子は勢至と云ふ事也是は迹化熟益の時の沙汰也、此の上に経には如し日天子能除くが諸の闇を、如く日月の光明の此の人行すと世間に説き、高祖は日蓮は天の日に影を移す者にて候向て天に是れを奉れば見生身妙覚の仏居●本位に衆生を利益し玉ふ、云々、此の段口の外に不る出さ法門也、上の段々は従因至果・従浅至深の切り続き也、此の段は従果向因・従深至浅の処也、方法諸仏は垂迹施権・本地難思の本仏一躰計り本門也、本門家に一乗法と云ひ無二亦無三と云ひ諸法実相一実中道一国一尊の御影等と申す法門爰元に有り之れ是れが一実躰独一法界・唯我一人の秘伝也、十八に日文字の口決御相承御判形の大事・産湯二個の相承等は本因化儀の巻物両帖の大事・本尊の中央の題目日蓮の二字の習の処可し思ふ之れを、唯我与我の血脈相承・三堂棟札・本御影堂(云云)、本仏本因に於て久遠本因と末法の御出世と可き習ふ事有り之れ可し思ふ之れを、一大事なる間不載せ之れを以て信を解し之れを可き窺ふ深意を而巳。

△蓮の才覚の事、例●上の日の字に可し知る之れを乍ら去り闕ぐる処書く之れを聖教の分は玄義の一の十譬喩当躰可し思ふ之れを、小権諸経諸仏を麁花の六譬とし以て蓮花を譬る今経に也、於て其の上に迹門の三譬本門の三譬・九界為権仏界為実・迹の十界本の十界・於て此の上に本門に有り因果是れを名く蓮華と、因果に有り種脱文の上の寿量の因果は迹中之本の脱益の因果也、尚迹の蓮華也皆是れ迹中の益也、権実約智約教・我実成仏の実の字の分斉也、文の底は下種也下種の処は本地難思境智也、本迹約身約位の我本行菩薩道の本門也、於て此に本門下種に有り因果有師弟以て弟子を為し花と以て師を為す菓と々は果也花は因也末法の一切衆生は花也因也、高祖は果也菓也主師親にて御座す故也、故に蓮花の二字の中に蓮の字を主し付け玉ふ受持本因の所作に依りて口唱本果の究竟得と(云云)可し思ふ之れを、爰を当躰蓮花仏と者日蓮か弟子檀那と(云云)、於て蓮花に三の徳行を習ふ也●泥不染の徳・種子不失の徳・因果同時の徳也、●泥と者経に云く不染世間の法に如し蓮華の在るが水に矣、脱仏の釈迦は生る王家に非れは於泥に真実の蓮華にあらず熟益の天台は臣下の家に生れ是れ亦教権位弥高也、高祖片海の海人の子也、(云云)(依報)小湊是れ則●泥也・(正報)海人是れ則●泥也、殊に生死無常の穢土・煩悩深重の娑婆就く中ん謗法充満の●泥の中に受け生を給ふ教弥実なれば位弥下しと可し思ふ之れを、種子不失と者在世を云へば五百塵点の当初教化是等衆の自性所生の眷属、本化上行独り下種の導師也、知んは余は止みね善男子と(云云)天台は験し余は末だ堪に(云云)、文の底の末法正意の時は三世常住の法主・妙法下種の真浄大法を十法界身遊諸国土●種子を蒔き玉ふ、種子の熟不熟に付いて三世九世種熟脱の不同有り之れ三世に此の種子不失せ終に成仏の菓を取る也、初め従ひ此の仏菩薩に○成就と是れ也、殊に末代は要か中の要・正か中の正たる本法の下種の南妙法蓮華経・本門下種の主師親・久遠常住の本因妙・名字即の釈尊直に御出現有つて一切衆生の心田に本因妙の本種子を蒔き玉ふ時分也故に蓮と云ふ字を付け玉ふ也、因果同時と者惣●円教の菩薩即属仏界で因分ながら果分仏果の摂属也、本末究竟諸法実相六即の階級可し思ふ之れを是れ従浅至深の分也譬へは観音の卅三身の中の仏身の類也、本門に入て上行等の事を釈する時、其菩薩界常修常証・無始無終・報仏如来常満常顕・無始無終と(云云)、

此の釈は外適時●の辺は等覚の上の上行・妙覚の釈迦五百塵点の顕本・文の上の寿量等の一分也、於て当宗に任せ高祖の御定判に者於て寿量品に文の上底有り之れ、文の上に有り因果謂く久遠は我実成仏の果也我本行菩薩は因也、是れ則今日は脱益の釈尊其の弟子の上行也是れ文上の取り様也、久遠今日共に神通之力の分也、文の底と者我実成仏の五百塵点の師弟は等妙二覚の脱形なれば久遠今日共に迹也、謂く在世の釈尊上行也権実約智約教の迂廻転入の機の前のやすらひ也、是れを本果と云ひ迹中之本の々と云ひ脱と云ふ也、さて我本行菩薩の々々と云ふ底心は本因妙名字の本仏の事也是れは末法の師弟也、謂く日蓮日興也、久遠末法共に本也、本迹約身約位も本門直行の機のため也、五百塵点の仏に対●此の本因を本因と云ふ也、本因の家に有り因果果は師匠因は弟子也、是れ則題目の五字に師弟を沙汰し受持する処を事行の一念三千因果同時の本因本果と云ふ也、さて自行一躰の上に置けば受持する処の題目は本因妙の下種の法躰、唱へ出す処の我れ等は本果の主也、夫れと者南無妙法蓮華経日蓮是れ也四唱導師可し思ふ之れを、其の外約すれば義味に者蓮は日の廻るに随て西にめぐる也天の陽徳、地の陰徳一体不二を表する也、惣●法花には題号に廿八所に蓮華有り之れ別●譬の七譬も即蓮花の異名也委細は略す之れを、上件の沙汰日蓮の二字を表する世出に時、(日蓮)妙法、(蓮日)止観、(蓮日)定恵、(蓮日)境智、(日蓮)天地、(蓮日)陰陽、(日蓮)父母、(日蓮)日月、(日蓮)男女、(日蓮)夫婦、(日蓮)師弟、(蓮日)水火、(日蓮)日本、(日蓮)日神月神、(蓮日)色心、(口伝)本尊堂、(口伝)御影堂、(口伝)智火、(口伝)法水等也、二字の出処は日の字、寿量品中に云く自我偈に恵光照無量等是れ也、或は神力結要の五重玄日月光明の文・斯人行世間の文・十方世界通達無●の文・或は又如日天子能除諸闇等也、御抄には日の字は千日尼御前の御抄・新池抄・法蓮抄・観心本尊抄・深秘には日文字の口決等也、蓮の字は当躰義抄・本尊問答抄・秘伝には産湯相承等是れ也、真には大慈大悲の御名也日蓮慈悲広大○(云云)、慈は日・悲は蓮也是れ則抜苦与楽也、次き下に日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり無間地獄の道をふさぎぬ(云云)、盲目を開くと遊ばすは大慈与楽の父の徳・恵光照無量の摩頂の御恩也、無間○ふさぐと遊はすは大悲抜苦の母の徳・如蓮華在水の膝の上・当躰蓮華の養育の御恩也、さてこそ当帝の父母と書かれたり況や下位の万民をや、其の外入り本尊に分座を沙汰する時塔中の釈迦多宝も題目日蓮の妙境妙智より果後の方便に出づる時の脱形也、さてこそ中央に題目左右に釈迦多宝と(云云)、此の上に当家の左右と者本因本果本尊御影師弟の事ぞと可き奉る付け信を者也、不動は火炎にまとはれ載き蓮華を愛染は流水を所依とし蓮華をふむ皆是れ日蓮の垂迹也、天地開闢依正の二法何れも自り此の分可き分別す也可し秘す々し々す、非んば正信に雖も及ぶと見聞に御抄の深意を実には此の重々の案不可ら及ぶ分別に不便也(云云)。

△聖人とは於ても内外典に於ても大小乗に聖人号有り之れ、先つ於て僧綱に官位十三階の不同有り之れ、其の中聖人は位也官は律師に相当る也又位は法眼にも当る也於て公場に進む処の僧中の官位の首也、故に名字即の初位に名とす斯を法師は理即也上人は理即の頂上名字に不足ら世俗の散位の分也、上人と聖人と一つ位也、分別の時は初後あり如し常の皆是れ有り之れ相承なれは略す之れを先つ世間には知るを一世を曰ひ賢人と知るを三世を曰ふ聖人と也、是れ一世の三世也孔子老子の類是れを儒家と云ふ也未断惑の凡夫也、外道を聖人と云ふ是れ一分の有り断惑過去八万劫未来八万劫を知る故に曰ふ聖人と此の時は儒道の聖人は凡夫也、外道尚不る知ら因果を間非る聖人に凡夫也、断惑証理因果弁智の二乗是れ聖人也、小乗の菩薩亦過去三僧祇を知る未来準す之れに、通教の菩薩は動●塵劫、別教は一々の位中多倶泥無量百千大劫、円教亦過く之れに、迹門は三千塵点の過去を知り本門は五百塵点の過去を知る未来亦無数劫也、根深ければ枝しげし源遠ければ流れ長しの類也、如き是くの重々の聖人雖も有りと之れ本門に望る時は爾前迹門尚凡夫也況んや小乗外道等を哉本化上行涌出の日、等覚の大士一生補処の弥勒仍居す賢位に況んや下地況んや凡夫をや、此の時は一住は等覚の大士皆聖人なれ共再往上行出現の時は凡夫也、所詮元品の無明を不るを断ぜ本門に入つては凡夫と云ひ断するを之れを聖人と云ふ也、上行即日蓮也、尤も聖人号可し有る謂れ、又天台は人得る正法を故に云ふ聖人と釈し玉ふ涅槃経には学ぶ大乗を者は雖も有りと肉眼名けて為す仏眼と共説けり以て是れを可し知る之を、上は何も浅略の時の沙汰也、真実の聖人は者名く断惑に、若し爾ら者末代の凡夫争か可き有る断惑哉と云ふに在世と与とは末法断惑の姿各別也諸経と与と本門又別也、然る間余経の断惑者本門の時は未断惑也、余経の未断惑也、本門の断惑也、弥勒不識一人の類仍居賢位に可し思ふ之れを、正智は自ら知る共或は元品の無明○(云云)、是れ末法の不断而断の断惑也、煩悩即菩提生死即涅槃是れ也、熟脱の仏菩薩尚不んば値は下種本法の聖人に者元品の無明●し断し神力品可し思ふ之れを、然る間爾前迹門等の三世を知ると云ふは一分々々の三世也全分の三世に非ず、されば御抄に聖人と申すは委細に知るを三世を云ふ聖人と也(云云)、

委細と云ふ字可し案す之れを大切の御文相也御抄の皆とは是れ躰の御文章也、迹化等は委細に不知ら之れを当分の三世也、本門下種の導師計り出過三世の委細に知り玉ふ也、又御抄に以て近を推し遠を以て現を知る当を如是相(云云)高祖知り玉ふ●三世を先つ尋れば過去を本地難思の境智の妙法迹仏の思慮に不及ば(云云)、迹化の菩薩は不及ば申すに迹門の仏の思案にさへをよばれず況んや過去を可き知るを哉、境智の妙法を知る人は誰人ぞ哉可し尋ぬ、御大事に釈尊は脱益の教主日蓮は下種の法主(云云)、下種と脱は何かさきなる哉可し思ふ之れを脱は迹、種は本也、或は又日蓮は不軽の跡を紹継す(云云)、是は過去本因妙を知り玉ふ処を中間不軽に事をよせ御定判有り之れ過去の始終也、或は又五百塵点の当初凡夫地の御時等(云云)是れが知る過去を也、さて神力結要の付属・不軽勧持の御一部の御修行是れ又現在の御利益知る現世を也、此の時は文の上の迹門の利生尚末法には無し所用、真実の三世益物の寿量品と者下種の妙法蓮華経、過去の自我偈と者毎自作是念の御慈悲常住三世の自我得仏来○千万の末法の高祖誠の聖人にて御座す也、されば御抄に比れ偏に日蓮か非尊貴に法華経の御力の殊勝成るに依る也、或は又日蓮は一閻浮提第一の聖人也(云云)、是れ則余仏菩薩は当分一機一縁の聖人也臨れは本門に凡夫也、高祖は三世出過の聖人にて御座す也是れ従果向因本地本門の深秘也、其の外過去の不軽品は今の勧持品、今の勧持品は未来の不軽品なるべしと遊すも、底心は三世共に唯我一人知三世し玉ふ処の聖人号を名乗り玉ふ也、聖人の二字を分別する時は聖は名字即、人は理即也判摂の名字可し思ふ之れを凡聖一如即身成仏の意也。
△遺弟とはのこる弟子也弟は次第する義也。

△冨士山とは仁王七代孝霊の御宇七日七夜天下とこやみに成り震動雷電して此の山涌き出る也、役の行者初めて南門を押し開き禅定す八葉の霊地也、出雲の不老山、駿河の不死山とて不老不死の山也、冨士の郡に在る故に替て字訓を冨士山と書く也、開山従り身延冨士に御遷座に有り其の習ひ流布の日可し有る披露、爰を以て冨士門徒と名乗る也、何の所に有り共於て王前に冨士の住と可き申す也有り深秘追て可き習ふ而已。

△隠侶とは隠は々居也無き御帰依間は隠居の宗也依て之れに私に隠居と云ふ名目好て不仕ら(云云)、又当門家に院号を不る名乗ら事此の謂れ也、王法も太子を坊と云ひ官人のつぼねを房と云ふ書籍を置く処を寺と云ふ隠居の王号を院と云ふ天台真言例し之れに灌頂出世●隠居の日に院号を名乗る也、法華宗は天下の無き帰依間非す出世に院号を可き名乗る其れ謂れ無き之れ故に不る名乗ら也、流布広宣の代には国師と成り於て其の上に名乗あるべし惣院号は上行院可し成る、侶とは勝るるを百人に曰ふ侶と、△日要、日要の二字をかゑせば燿と云ふ字に切也、かゞやく共ひかり共読む也、又。の字にも反る也はるかなりと訓ず二字共によき字也、日要の姓は土姓名にて御座す。

△早と云ふ字は政道を急く義也帝王の綸旨太上天王の院宣下し文等にも如く此くの被る書か也、△過時とは惣じては諸宗別しては天台宗也白法隠没是也、△爾前○正法とは法華は対し爾前に本門は対する迹門に詞也、五老僧の申状には権実計り也、或は天台沙門日昭謹て言上す先師日蓮忝も為め法華の行者と専ら顕す仏果之直道を酌み天台之余流を尽す地慮之研精を(云云)又云く構え法華之道場を致す長日の謹行を已に有り冥々之志豈無らん昭々之感哉(云云)、或は天台沙門日朗謹て言上す乃至然●而日朗忝くも相伝し彼の一乗妙典を鎮に奉る祈り国家を(云云)、或は天台法華宗沙門日向日頂謹て言上す、扇き桓武聖代の古風を汲む伝教大師の余流を、又云く祖師伝教大師の延暦年中始て登り叡山に弘通す法華宗を(云云)、又云く擬し於法華の道場に祈る●於天長地久を于今無し断絶する●(云云)、如し六人立義抄の、△末法相応とは上行結要付属末法の応化利生也、於て末法に上行出現可き有る之れために在世に出玉ふ四の故有り之れ、於て末法に諸宗の謗法を責め給ふは破執の故に来る也、正法の本門の妙法を顕し玉ふは顕本の故に来る也、時を得て弘通し玉ふは弘法の故に来る也、応し時代に付属を受け玉ふは聞命の故に来る也子細と者是れ也、此の標の文段に与へて云はゞ五段四悉の二可し有る之れ、仏法の教化肝要也、本門の正法は教也末法を指し玉ふは時也、冨士山とあるは国也、遺弟は機也、建立は教法流布也、日蓮は五段の主也、日要は受持の弟子也、即師弟因果也、四悉と者謗法対治は対治悉檀也、建立は為人生善也、本門の正法は第一義悉檀也、大唐の正像と与は日本の末法隔異也、冨士山は歓喜世界也、教行証可し有る之れ、謹て言す子細の状などゝあるは教也、謗法対治は行也謂く如説修行也、末法相応の本門の正法は日蓮日要の師弟証の重也、謗法対治は折伏也、正法建立は摂受也、謗法対治は他破也、正法建立は自立也、謗法退治は外用也、正法建立は内証也。

△副進とは目上の御申状の事也、目上は一代の間四十二度の御天奏也或は高祖開山の御代官或は自分の奏状也、四十二度目正慶二年癸酉御上洛の時於て美濃国樽井に地盤行躰勤労之上、長途之窮屈老躰之衰病、殊に雪中寒風の時分たる間こゞゑ給ひ既に御円寂霜月十五日也、御伴太夫の阿闍梨日尊其の時化儀本因妙の両状の御大事彼の家に亘る也と云ふ説有り之れ、伯耆阿闍梨日道も御伴也、然し者兼ねて大石を日郷へ御相続也、其の後坊地諍の故日道と日郷と不和有り之れ是れ日道誤りの始め也惣●余多の謗法彼の家に有り之れ、目上御遺言に曰く此の申状不●奏せ終に臨終す此の土の受生雖も無しと所用今一度生れ人間に可し奏す此の状を、若し此の状奏間の人於て未来に有ら之れ者日目か再来と可し知る、其の時御辞世の歌に代々を経て思をつむぞ冨士のねの煙よをよべ雲の上まで、此の心可し思ひ合す、雲の上は大裏也代々は日目已来の血脈也思をつむは四十二度の行功也、をよべとは、於て後代未来に奏聞せんとの御心也、然る処に正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人無し之れ依て之れに日目門家にも何にも此の状を日中に不奏ら読み、爰に日要奏す之れを争か可けん疑ふ之れを乎、其の上当家の再興行躰の辛苦不異ら目上に、如之要上或る時霊夢に大聖開山有り御相伴日郷の御爵にて以て金銚子を酒をうけ飲み玉ふ、爰に日目は不見へ玉はさても不審也と思ふて夢覚めたり平生御雑談也、其の後妙本寺の上人に御住也、此の事は学法の師日杲、叔父若年の小師日円、慈父要甘等節々被る申さ也於て当寺に覚へたる人あまた有り之れ、殊に目上は霜月十五日要上は霜月十六日何れ以て有り所謂、三大秘法の相承は直の御弟子にも無し之れ目上御一人也、当家再興は恐は於て一門に百余年已来要上に肩を並ぶる人一人も無し之れ信行志学の正義不可から不る信せ不る可から不る崇め而已、三の申状奏聞の時中の御門殿の御息有り内見元弘三年とあるを御覧●不審●曰く元弘は一年也是れ正慶二年なるべし一年ならず二年の相違也如何んと(云云)、要上答ヘて曰く是れ有り謂れ足利源尊氏と与北条平高時取り合ひの時一方は元弘を用ひ一方は正慶を用ふ、仍て元弘二年の時改む正慶元年と然る間正慶二年は元弘三年に当る也、元弘三年に北条滅亡す依て之れに後醍醐重祚有て尊氏を為す将軍と正慶を不る用ひ也、当り時に元弘を用る間書す之れを于に今不及ば改るに如く正本の也(云云)、其の時於て天庭に日要は真俗の達者公武のたてわけ案内者也ト有り褒美(云云)、以て泰平記を此の段へ可し見合す前後まぎるゝ事多し之れ。

△右とはまえの事を指す也、謂く爾前迹門対治本門建立の再説也其のまえに子細無き之れ則んは右と云ふ字不可ら書く、付て之れに世出の習ひ有り之れ略す之れを奏状の法として右の字を用る也院宣下文等大躰同し之れ、△旧規とはふるきのりと読む也古法也、△興隆はをこしたつると読む再興の義也、建立は初めてたつるを云ふ也、故に上に本門の正法を建立と云へり正像に末だ弘通せ天下無き帰依故也、爰には興隆とある惣●すたれたる法を再興する事は賢君によると云ふ義也、△賢君は王法を指す也弟子檀那となるべき人也檀那は助成●仏法を建て師匠は化度●守るなり国家を布施利益の二也、感応道交せずして仏法も不る弘ら故に必定の字を置き玉へり是れを対句と云ふ也、言は仏と与国・法と与家・興と与安・隆と与全・必と与定・賢君と与仏陀・感と与応也、対句の処は以て此の意を可し分別す、感は他声・応は平声也、韻声の事不定ら申状などに韻はふまず、つゐ句などは声を替える事も有り之れ、又かえずしても、くるしからざる也依り処に一つ声をも用る也、如し常の広き間懇ろに不る記せ之れを也。

△故とは上の事を下に受けて云ふ詞也興隆したる先例を引き玉う也、△異或は他国也指す唐土を也域はさかい也、△陳隋両主の明時とは陳の代に武帝・文帝・臨海王是れは廃帝也、宣帝とて有り之れ、武帝の時は未だ弘ら、文帝の時天台の弘通盛也、隠居山谷は此の時也、●の一に陳少主再び勅●頻に迎へ隋文帝有り勅請ふ住せよと矣、少主とは陳文帝の事也又宣帝の事共云ふ也、廃帝は悪王にて不帰依せ、隋の文帝煬帝恭帝とて三王此の中に始め二代帰依也、中にも文帝有り帰依初め住し給ひし瓦官寺に住し下へと請待あれども都の中の間不還玉は、煬帝は悪王也依て之れにていとよまずしてだいとよむ是れに限る也、是れも大師を帰依ある也、取分け帰依あるは隋の文帝、陳の文帝也故に陳隋と二代を挙げて除いて余を二人の文帝を指●明時と置き玉ふ也、両主と計り云へば何れも帰依の様に聞ゆる間取り分くる時、明時は明君の時代と云ふ意也除く余の王を也、此れ等ちからの入りたる文章也以て浅慮を●知れ歟△智者大師とは天台の大師号也、名をば智●禅師と申す也陳の代に誕生し隋の代に円寂也、以て日本の王代を勘るに之れを廿九代宣化の御宇僧聴三年戌午に誕生卅四代推古の御宇告貴四年丁巳六十四才にて霜月廿四日端座●入滅と(云云)、△十師は南三北七也、△本朝は日本也、△亦の字は上と同し事をまたと云ふ時亦の字也ものまたと習ふ也、別段の事を詞の助に又と置く時は又の字也はのまた都可き得心也、△桓武とは五十代の王也柏原の天皇共申す也、延暦元年より在位也治廿四年也、△最澄とは伝教の事也伝教と者大師号也、四十八大称徳の御宇神護慶雲元年丁未に誕生し延暦四年十九才にして初めて入る叡山に、廿一にて東大寺に授戒す廿二の時なり、同く七年に根本中堂の建立有り之れ可し有る異説(云云)、同く廿三年卅八にて入唐七月也、同く廿四年十二月十五日帰朝也、嵯峩の御宇弘仁十三年六月四日五十六にて円寂也、△六宗は南都の六宗也正月十九日於て高雄寺に有り問答所詮三説超過(云云)、委は如し三大都の、△異賊とは東夷奥州によせ来る北狄壹岐対馬に寄せ来る其の時伝教以て使を責む之れを恐れて法威を退散す、△爰知とは是をこゝに引き寄せて知る也こゆるの義也、△普通は世出のまつりことの道通する義也、△破権○諦とは入つて仏法に権実の沙汰也、△依る之れにとは如く此くの破権立実すべき為に仏兼て未来を正像末の流通ありと云ふ義也、△大覚○過已と云ふ是れ迄は世間出世の善悪爾前迹門権実の様躰也、△今入○四聖耶とは地涌と者本化の菩薩本門と者下種の要法也、四聖と者上行無辺行浄行安立行也日鎮筆土代には四唱とあり、奥に日要の示書ある本也可し勘ふ之れを、本門の題目空大・四聖は地水火風也是れ本有の五大也、底心は六万恒沙涌出、血脈五大相続●三世常住の利生を指●聖と云ふ字を置き玉へり指す惣躰の地涌を也。

△就く中んとは其の中に取り分る義也、諸経諸宗の中に取り分け本迹相対を書く也、其の上妙楽天台よりも伝教の弘宣本門に親しき也、雖も然りと彼んは像法の弘通なれば破し玉ふ也況んや天台妙楽を哉、況んや今の自立廃忘の天台宗の事は不及ば沙汰に伝教は天台妙楽の沙汰無き円頓戒を授け殊に日本に生れ末法に近しの書釈又したしき文章多し之れ、故に高祖外用をば超へて自余に御荷担ある也、本迹相対の時は所破とし玉ふ也、△円頓の教は止観の一念三千の法門の事也、御抄に妙法の名字を替えて止観と説きまぎらす有の侭の妙法に非れば猶似たり帯権の法に(云云)、帯権と者別教の事也可し思ふ之れを、△妙法蓮華経は本門也とは三大秘要の法躰也一品二半に非す八品に非す妙法蓮華経計り本門と云ふ意也、末法弘通の妙法蓮華経と云ふ処に心を付る也、下種の要法を指し玉ふ也法躰の主を挙げ玉ふ時、△日蓮聖人は末法弘通三大秘法の中に本尊也(云云)、人法一個の習ひ可し思ふ之れを、上に地涌出現と云ひ本化四聖と云ふ処を慕ひて日蓮○本門也(云云)、△彼れは薬○身とは伝教也、天台は薬王の再誕也、伝教は天台の再来也、八舌の●七面口決可し思ふ之れを二三転なる間再誕とあそばさずして後身と置き玉ふ也、薬王にもかゝり天台にもかゝる詞也、此れは上行○誕とは高祖の御事也、上行は八品の外諸経の座に列りたまはず正像に出世無し之れ、天竺唐土非ず出世之地に必ず末法日本国に御出生有る之れ故に再誕と(云云)、示し書に仏滅後二千二百○未曾有の大曼茶羅と(云云)、本地は上行再誕の時は日蓮也第二転也是れ文の上の経巻相承の一筋也、入つての宗旨に相伝に本地自受用報身の垂迹上行の再誕日蓮と(云云)、若し然ら者三転也何ぞ垂迹と云ひ再誕と云ふ哉本迹可し習ふ之れを当家の一大事也断はる筆を処也、再誕の処をば可し知る之れを自受用の本躰大切なる歟、所詮宿習と信心と如き膠漆の歟、△本迹○火とは迹門は始覚・始成・従因至果・断迷開悟の理の円、本門は本覚・久成・無初無終・従果向因・不断煩悩の事円也、指し当りては本は上行日蓮、迹は薬王伝教也、於て之れに本か家の本迹・迹か家の本迹有り之れ、一住の時は上行は本・日蓮は迹、薬王は本・伝教は迹也、在世の文の上の本門より見る時薬王尚迹也、止善男子(云云)天台は前三の釈を残し玉へり何に況や天台伝教を哉、入り門家に在世上行は迹謂く等覚也脱益の座也、非ず本因妙名字即に、故に本と者末法の高祖也、此の時末法と者久遠也、高祖即本地名字の自受用報身にて御座す也、然る時在世脱益の本果の仏の弟子と成り玉ふ時は約智約教・教権位弥高の等覚地也是れ迹也、末法に出で玉ふ時は久遠直行の御姿法性の淵底・玄宗の極地、名字本地の本因妙の有のまゝの御姿・本地難思の妙法也、夫れと者末法の本尊御影是れ也可し習ふ、以て是れを当家の本迹と云ふ也、種の家の人法をば境法共妙法共沙汰する也本迹の迷倒爰より起る也、△修行亦如し天地のとは水火の対也、修行と者於て之れに信解行或は文義の修行可し有る之れ、先つ迹門は観行五品の行位・雙用権実・理の一念三千・境の一心三観・摂受順化の方便・本已有善の機情・迹門付属の儀式・円頓の観法・安楽普賢の●則・法行観の行法也・始中終則文義意也、妙解則信解也、妙行則行証の重也、本門は名字信因の行位・但令用実・事の三千・智の三観・折伏逆化の立行・本末有善の所化・本化付属の化儀・妙法の信心・不動勧持の方●・信行観の修行也、信解行証、文義意等入りての当流に相伝可し思ふ之れを、御抄に本迹の不同を天地。に異也と書かれたり、何ぞ爰には本迹を水火と云ひ修行を天地と書きたる事如何と云ふに、彼れは天地本迹の沙汰計りにて修行の事無し之れ故に天地と云ふ、若し爾ら者爰にも本迹を天地と云ひ修行を水火と云ふべけれども本迹と者法躰を指す也、修行と云ふは行者を指す也、行者に法躰をもたする義也、水火は天地の間にもたるれば也、△是れ則とは上の子細を是れと指其の当躰をことはる時則と云ふ也眼前の事を取り出す也、△如来○次第と者本迹付属の次第各別也、近令有在・遠令有在・証前起後・神力別惣付属・属累惣別付属等也、△大師とは天台伝教也、上に智者大師、伝教大師と二た処に実名を挙げ玉ふ間、爰には且く大師と有り之れ、殊に二人の名一に挙げがたき故に兼ねて二人を大師と計り有り之れ、平生且らく大師と云ふは天台家には天台伝教、真言には弘法等也、従り当宗於て公場に或は天台を指して且らく大師と云ひ先徳などゝ云ふ事不可ら好む、若しは始めに天台大師などゝ云つて其の次をことはる時は不苦ら申状の内にも所々に其の文章見えたり可し勘ふ之れを、△雖も然りとは如き此くの仏菩薩は正像末権迹本を分別し玉へども人皆邪を行ずると云ふ意也、△正路は妙法下種の正法是人於仏道の法躰也、△邪途は爾前迹門の邪法也三途の業因也、△機縁○法主と者機は本未有善理即の衆生也、法主者下種の主也、縁は感応道交師弟因果の媒也、於て茲に当家の法門可し有る之れ純熟と云ふ処に可き付く心を也、△教法流布前後とは教機時国教法流布なるべし前は爾前後は法華・前は正像後は末法也、△剰とは法華の時機を不知ら不る信せ上に又邪法を行ずると云ふ義也謗法を指す也、△邪○之法とは邪教と権教は一つ也邪師と権宗は一つ也、何ぞ二く所に云ふぞなれば経々の中の教は宗々の中の師匠と云ふ義也、分別する時は経は依経・教は教誡・宗は宗旨・師は師範也、法とは悉く結する也、△祈祷とはいのる也祈はいわいていのる也、祷は至誠心にいのる也論語に祷爾す上下の神祇矣、諸天仏神にいのる義也、△鎮はしづむるとよむ鎮護国家或は鎮守府の将軍の類也、△四海逆徒とは四方賊来る也、徒はともがらと訓ず九夷六蠻七●八狄卅流有り之れ、安国論の二難尚残自○難他国○難(云云)、高祖已後自界反逆盛也、残る所は一難也謂く他○難也、此の事諸御抄の明鏡也経には何の処ぞや可し尋ぬ如き処御抄の也、△三災○強盛也とは災は一時も一日も一月も有り之れ故に随ふ日に矣、乱は一年二年もよをす間逐ふ年を矣、文章の縁語大切也。

△爰には今奏状の作者を指●爰と云ふ也、△苟とはまことにと云ふ詞也非す賤の義に、△八葉の幽居とは冨士山也是れ則三大必要の中には本門の戒壇也、真の霊山事の寂光・本有の伽耶・当躰蓮華・法性の淵底を指して幽居と(云云)、日要は正報也・八葉は依報也幽居は依正躰一也、△九重の豊城とは王城也八葉の対也、面は真諦俗諦也内証は八葉は仏果幽居は寂莫の処、九重は九界豊城は俗諦常住也、寂照の二徳因果の二法也、△千思一言とは孔子は九思一言・仏は千思一言也是れ為令めんが吐か金言を也、無●遠慮而言語多き者は吐いて虚事を損する自他を也、△万機照る●とは国王は百官万民の機をかゞみ照覧ある也、照は日月比す帝王の威光に●は明鏡比す道徳の清浄に賢君の徳行を美むる詞也珍敷語也、△賢覧とは仏法の器を聖人に取り檀那の王法を賢人に取る此の例多し之れ。△非す私曲にとはわたくしに事をまげて申すに非す任る正直の仏説に云ふ義也、△既にと云ふ詞は上に云ひたる事の替る時に用る也、又子細の隔りたる事を云ふ時用る也、今の私と昔の経論と隔つる也引き寄て証とす、△経論明文とは経は法華神力の付属薬王品の守護是れ也、仏に懸る詞也、論は弥勒・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教等也証拠は如し聖教の、△先師等の所勘とは先師は高祖、等とは興目郷上の申状是れ也、勘は専ら安国論也、謂く五段の勘文也日蓮勘可し思て之れを、其の外申状等也、△符合はかなひ、かなふとよむ也、爰に日要苟と云ふより符合する者也と云ふ迄作者の所礼也、△望み請ふとはのぞみこうらくばと云ふ義也願ふ詞ば也、標の段の請ふ子細の状と云ふ処を結する也、△速とははやく也上の標の段の早の字を結する也、釈の段には地涌出現の砌也(云云)、△爾前迹門とは標の段の正像過時の爾前迹門と云ひ釈の段には誰か猶崇めん権迹の諸宗而(云云)、本迹相対の時は彼れは薬王の後身○身(云云)、是れを結し給ふ也、△法華本門とは標の段に末法○正法と云ひ釈の段には不本化の四聖に乎或は是れは上行の再誕(云云)、是を給ひ玉ふ詞也、△天下泰平とは一天四海也、標段の子細と云ふ詞は対治し謗法を被れ立て正法を者可き為る現当安全子細を以てすゝめ申すの義也、釈の段には国家安全は○応・或は衆生化度の誠諦・或は又一天安全等也、無二無三の法雨とは経に無二亦無三○説とあり一乗の法雨下種の法水也夫れと者題目の五字也、標段には本門の正法と云ひ釈の段には本門流布共機縁○法主共教法流布共末法弘通の妙法蓮華経共有りて之れ結する之れを也、△東関とは京より東を指す也於も唐土に関西関東とは京と与田舎境也、日本は相坂の関より東を関東●坂東(共)云ふ也、別●云ふ時は東国のはちなる間指●八ケ国を東関共関東共坂東共云ふ也可し有る異説、標の段には冨士山と云ひ釈の段には国家と云ひ本朝と云ひ四海と云ひ国土と云ふを結する也、△柳営とは将軍の居所也、△雲とは慈悲の雲也法雨は法躰也雲は師範也日蓮が慈悲可し思ふ之れを、言は高祖東国の御出生殊に六の申状に世は帰す関東に○風と遊ばすが如き也、所詮妙法の法雨従り当国西漸し広宣流布すべき也、此の時末法の主師親大慈大悲の雲覆ひ一天四海に無二無三の一仏乗の妙法蓮華経の下種の法雨をそゝがんと云ふ義也、是れ受持灌頂の儀式を兼ねて遊ばす也、底心に冨山六万坊の時王城関東に可き建つ事を当日の将軍の居所に寄せて東関柳営の雲と遊ばす也不ん然ら者爰に無き所用事也、広布の時王法受持の様躰を兼ねて遊ばす也、東関は世間相常の王城鬼門の本門寺、柳営は檀那の王位将軍也、無二無三は謗法対治也、此の下種法水の南無妙法蓮華経の本尊の事也、雲は大慈大の末法の主師親本因妙の御尊躰也、潤は師弟受持広宣流布也、鎮は天下安穏也大事の法門也能く々可し見分く、△順縁逆縁とは常には自宗他宗也、爰の様躰は流布の時皈伏の人を指●逆縁と書ける也、自り元法華宗を指●順縁と遊ばす也爰は畢竟流布の時の事也、△風流は仏法の家の風也風と者経には上行菩薩無辺法界の利益にさわり無き事を説く時、如く風の於て空中に一切無きが障●於て如来の滅後に知る仏の所の説く経の因縁及び次第を(云云)、釈には十法界身遊ぶと諸国土に(云云)流と者経には広宣流布、釈には遠く沾ふ妙道に故に有る流通分也(云云)、法主の無辺法界の慈悲を風に譬へ法躰の広布を流と云ふ也、△普とは普天の下を指す也、△本法蓮現とは此の申状の中にも金言也、於て京都に諸学匠見て此の状を此の一句可き遊ばす為也と褒美せり(云云)、内意に大事の法門可し有る之れ頓速に●し顕し、凡そ云はゞ本と者久遠本地名字真因の重を指す、法と者下種の要法久遠元初の事の一念三千の南無妙法蓮華経是れ也、蓮現と者師弟因果同時に顕現する処の本因本果受持口唱の振舞当躰蓮華仏の重也、事の一念三千の光耀唯与円合の満月一月万影の本覚真如不変の月生死長夜を照す処の心月也、是れ非ず迹門に本門の家に有り境智有り定恵如日月光明可し思ふ之れを、日は恵也智也月は定也境也、光は天にかゝり明は地に取る、御定判に云く天晴地明也(云云)、於て此の重に習ひ可し有る之れ、要上既に目上の申状を再び奏し給ふ若し然ら者三大秘法は目上の御相伝殊に奏状に三大秘法計り遊ばしたり、殊に日目門家の大事也何ぞ此の日要申状に無らん之れ哉と云ふ不審可し有る之れ於て処々に有り其の得心、就く中ん今の文に重々被る遊ばさ浅智不信而不と可ら知る雖も顕はに書く尚約束を不ん記せ者将来可き疑ふ間慥に示す之れを、謂く天下泰平と者本門戒壇也、無二○法雨と者妙法蓮華経の五字也、雲と者本尊也、対句に亦遊ばす時海内静謐と者本門戒壇也、順縁○風流と者妙法蓮華経也、本○月と者本尊也、二重に遊ばす事如何と云ふに天に約し地に約す地上天下何も不と可ら残る云ふ御内意也、其の証拠には上の句には天下と置き潤と云ひ天より地を指す詞也、下の句には海内と云ひ翫と云ふ地より天を指す詞也、又法雨は妙法也雲は機情なり東○営は戒壇也、潤は弟子の信心受持を云ひ風流は機情・本法は妙法・月は師匠也・翫は師範崇敬也上下の句に師檀の二を云ふ也、文相の面は師弟の二つ也底心は如く上説の境智の二と可き得心也、是れ等は法門も文章も非ん真俗の達者に者不る可ら知る歟、此の申状要上の胸中の如く注るさん事は一大事也、且つ者権者の再来歟且つ者非ん要上の再誕に者本意●し顕はん、日我雖も不肖なりと任せ信心之一節に酬ふ聴聞之功力に千万が一分を伺ふ処也、為とは世の世間俗諦為とは法の仏法真諦也、文明八年己末三月也、大概如き此くの而已、文章法門対句已下此の状に懇に書く間自余は可し略す之を、六通並に安国論の見聞を以て各々を可し分別す影畧互顕して書く之れを也。
日郷上人申状
一日郷御縁起の事、生国は越後国御名字は太田・氏は源也、美濃の守護土岐殿の累葉也、然るに越後に金津孫太郎と云ふ地下人冨士門徒の檀那也、家の上に昇り向て冨士に唱へ題目を信心堅固也、是れを聴聞なされ汝が本寺に引き付けよ可し帰伏す(云云)、依て之れに道同申し詣で大石に目上に奉る也、最初は伊賀の阿闍梨日世と云ふ人の弟子也小師の坊也、後に修学の時目上の御弟子と成り給ひて有り学問宰相阿闍梨と申す目上の地言に仰せに曰く宰相はをちくりにて候と(云云)、いがの中よりひろふと云ふ意也、開山上人にも値ひ玉ひ有り御学問自り開山御遺物等有り之れ、大石の住持職従り目上御相続也、為て目上の御代官と房州へ御下着於て磯村御弘通あり、其の時目上の御文に曰く何々仰も安房の国は者聖人の御生国、其の上二親の御はか候間我か身も有り度く候へ共老躰の間御辺居住候へば喜悦無く極り候、乃至可く被る継か法命を候恐々謹言(云云)、爰に佐々宇左衛門の尉と云ふ人本は摩々門徒也、於て磯村に皈状申し致し御供を自身の堀の内を其の侭寺とす今の妙本寺の地形是れ也、九十八代光明院の御宇尊氏将軍の時代建武の比妙本寺建立有り之れ、度々の乱劇に聖教目録已上破損の間建立の年記日月・日郷の御縁起等慥なる目録于今無し之れ、自然於て末寺に写本下有らば之れ可き被る書き加へ而已、見聞する処の分書く之れを、此の申状は仁王九十八代光明院の御宇康永四年三月十四日薩摩阿闍梨日叡一人大裏の御共也、時の執り成し上杉の伊豆守殿也当于時の菅領也、其の後改る貞和と、惣●御一期の間の行学不及び言端に、或は俗学の多聞或は当台両家の広学其の外聖教をあつめ弘通を心懸け給ふ、或る時は上洛或る時は辺土の教化一日片時も休み不玉は、於て京都に手書日郷と公家武家共に崇ふ之れを、或る時京中に高札を書いて立て玉ふ諸人見て之をさても見事なる手哉、手跡の名人見て之れを此の手は雖器用なりと手の皮肉也(云云)、其の後在り京に亦高札を書いて立て玉ふ、諸人の曰く更に不る知見せ手哉何か様結構にては無しと(云云)、手跡の達者見て之れを言く是こそ手跡の骨髄よと(云云)、上の々下の々に至ては不と知ら云ふは是れ歟、一切物はほめてによるべし(云云)、御在世の内、観応二年辛卯日向財光寺立つ也日叡開山也、初めの天奏の時の御共薩摩阿闍梨日叡一人也、貞和五年奏聞の時は太輔阿闍梨日賢御共也、依て之れに京都案内の故自身も有る天奏也、初めは日賢の名は別也、牛王丸を日賢中納言と申す也、後に改む日伝と依て之れに太輔阿闍梨を日賢に成し玉ふ也、此の子細日伝の御自筆に有り之れ、大石久遠寺取り合ひの時従り今河殿中納言日賢と書きたるは日伝の御事也、末代にまぎるゝべき間次で示す之れを、貞和五年己丑又有り奏聞、其の次でに於て京都に霜月十五日に日目上人の御仏事有り之れ、御円寂は文和二年癸巳四月廿五日也、御出生の年月等不見当ら有ら記録後学可し加ふ之れを。
入文、標釈結の三段有り之れ、日蓮と云ふより請ふの安全ならんと状迄は標也、右謹と云ふより将に驚さん上聞を云ふ迄は釈也、望請と云ふより下は結也、作文の躰一の申状に如し書き載するか畧す之れを、△日郷の二字の反し韻鏡に不当ら見可し勘ふ之れを。
△本懐と者法華経也、△●聖とはむかしのひじりと読むなうの声也、ひさし共よむ也、のうと読むは悪き上へ農の字を書きたるは非なる歟、△先蹤とはさきのあと也、せうぜきのせう也、じゆうの声も有り之れ、文章申状などは先ぜうとよんで宣し、又はしゆうと読むでも不苦ら、さて又必ず経ならば、じゆうと可き読む也、言は天台陳隋伝教桓武のむかし聖人の行跡を指す也、始のかつうはと云ふは指し在世を次の且はと云ふは指す正像を、二ケ条を挙げて証する末法を也、△二千○去○来と云ふは去来の二字可し付く心を権迹は去り本門は来る也、△天下とは普天の下也、△海内とは率土の浜也。
△法自とは聖教に無し口或は性情未く練れ不る発せ神明も類也、△国独とは如何に可き安泰なる国も非ん仏陀の応に者不る治ら也、△然則とは上に云ふことを然か也と請け取りて其の当躰をことはる時則と云ふ也、△永平明帝とは安国論の抄に書く之れを間略す之れを、△移と者従り天竺移る唐土に也、△徳風とは徳化の清風也、△捨邪皈正とは爰では邪は儒道正は仏法也、震旦とは唐土也星を司る国也、日朗り申状には振の字を書く余の聖教申状等は震の字也二字共に不審也、ふるうと読んでほしとは不る訓ま也、辰の字ほしと読む本字●を云ふ也此の字なるべき歟可し勘ふ又ふるうと云ふ震の字を書くはあまかぶりの下のほしと云ふ字を象りてほしを司る国と云ふ歟、旦の字もあしたと云ふ旦歟、ほしいまゝと云ふ壇歟、同くほしいまゝと云ふ壇歟、可し勘ふ之れを、△延暦は年号也聖主とは指す桓武天皇を也、△廃権は爾前也立実は法華也、威光の光の字より日域の日の字に云ひかけ日の字より耀と云ふ字を取り出す也、徳風の々の字より移と云ふ字を引き出す也、対句の時永平と云ふ年号延暦と云ふ年号を対し明の字に聖の字・帝の字に主の字・移に耀・捨邪に廃権・皈正に立実・徳風に威光・辰旦に日域是れを対句と云ふ也、何れも例●之れに可し知る十二門の内用ひ一類を十二の対可し見習ふ之れを一々に不記せ之れを、△夫と者発語也上の事を云ひ畢りて又云ひ出す也、△在世滅後の異とは在世は三惑頓断の聖者・紫摩黄金の能化等覚金剛の弟子、正法は見思断惑の聖人三明六通の羅漢也、像法は相似勧行の解智・雙用権実の化儀・迹門摂受の修行也、末法は理即名字の化儀・逆化折伏の修行也、雖異にすと化儀を法躰捨劣得勝の事は同意也、其の謂れを挙げ玉ふ時、△故にと云つて在世滅後の不同を宣ぶる也、△捨四十○方便とは捨劣也、△演△見とは得勝也是れ権実の分也、△廃三○迹とは捨劣也、△顕如○本とは得勝也是は本迹相対也、文章に句の中の対と云ふは捨○見と云ふ一句の内に捨に演・四十余年に開示悟入・方便に知見と対する一句の中の対也、此の一句を下の廃三千塵○本に対する時二句也是が本の対也、下の句の内に亦句の中に有り対準●上に可し知る、文章に六種の隔句の中也、是れ迄在世の捨劣得勝也、此の上に滅後を挙げ玉ふ時、 △分滅○三時○四依とは正法は権也、此の内に兼たる小を也、像法は迹此の内に兼ぬる権を也、末法は本一向永異なれば本迹勝劣也、△矣と云ふ字を置き玉ふ事は正法より末法迄云ひ畢る故也、又正法に還つて再釈ある時、爾来正法より末法迄一々の様躰也、△初迦葉○小乗とは外道の法は捨劣也小乗は得勝也、△後竜樹天○乗とは正法の後の五百才を指す捨劣は小乗得勝は権大乗也、△像法千年也、なりと云ふ字にはとよむ事は者の字と心少し替はる也、言は正法千年なり像法千年なりと千年の事を先づ兼ねて云ひ畢る義也、千年をつかねて云つて又其の仏法の様を挙ぐる意也、△先摩○教とは両聖人従り天竺唐土に仏法を渡す事安国論の見聞に書く間略す之れを、於て葱嶺山に負ふ経を馬を悪鬼食ふ之れを、両人祈る之れ間雪山の白太王と云ふ鬼神の棟梁集て諸鬼神責る之れを時悪鬼従り口吐き出す白馬を、其の時太白以て術を成す本の馬と負ふて経を唐朝に来る其の経を納る処を号す白馬寺と、委く安国論の抄に有り之れ、△爾前△教とは唐土は迹門流布の国なる間先き馳せに権教が弘まる也、此の時は外道小乗儒者等を捨劣と云ひ権大乗が得勝也、△次天○理とは爾前権教は捨劣也迹門の法華経は得勝也、爰迄は正像二時四ケの五百才の捨劣得勝を遊ばす也、△正像の後方便とは末法には正像過時の権迹は共に捨劣也、△末世誠諦とは得勝也、爰迄は在世滅後異也と云へども捨劣得勝惟れ同と云ふ処を釈し玉ふ也、諦はつまびらかと読む也、△去り浅を就く深にとは上の正像末重々の浅深勝劣也、末法は小権迹共に浅也故に去也、深と者本門也可き就く此の本門に時剋当来也、伝教は去て浅を就くは深に丈夫の心也(云云)、此の上に種脱の浅深可し有る之れ種の本尊と種の法躰とを軈て次き下に顕し玉ふ也可し案す之れを。
△日蓮とは末法の師主親兼ふ之れを先師と置き玉ふ也本尊也、△弘妙法蓮華経とは下種の法躰也、△本門○道とは即是道場の戒壇也則三大秘法也、秘要と者秘者如来秘密也無作三身是也、要と者要か中の要或又捨略○妙法蓮華経是也(云云)、道と者得入道上道の戒壇也、秘要の道別して云ふ時三大秘法也、此の法門此の申状の肝心金言妙句也可し思ふ之れを、△末法和平とは天地和合也やわらぐ共とゝのふ共読む也、平は四海泰平也平はたいらか也共ひとし共読む也、理とはをさむると読む修理の意也、又道と云ふ字の対なればことはりの意も有り之れ、△雖も然りとは上件の如くならば可きを然る如く其の無き之れ間災難等有る之故に雖と云ふ也、△凡聖とは凡は諸宗の人師・聖は本門の法師也、△邪正とは邪は諸経正は法華也、 △鳳詔とは鳳は々凰也於て唐土に鳥の王也、論語に鳳鳥不至ら矣註に有り聖人受くる命を則は鳳鳥至矣、聖賢出世の端鳥也、詔はおゝせ也鳳を此師帝王に詔は王勅也、五ケの鳳詔可し思ふ之れを所詮迹門の付属の事也、△時節相違とは上に如し沙汰する正像末の流通を定むる処に過時の法を信ずるは相違也、△妙法○恩とは鴻はおゝひなりと読む、かりと云ふ字小かりを鴈と云ひ大なるを鴻と云ふ也、爰では大恩と云ふ事也、経には世尊大恩○謝(云云)、爰に如何なれば大恩といはずして鴻恩と云ふぞと云ふ不審可し有る之れ、是は大恩も鴻恩も同意也、本語有り之れ、其の上鳳詔の対に鴻恩と有り之れ、鳳は鳥の類也以て鳥を対とする間かりと云ふ字を用ひて鴻恩と置き玉ふ也此の類の文章多し之れ、大○鳳詔は付属也末法の師範をいふ也妙法○恩は題目の法躰也、人法の二を挙げ玉ふ也種脱可し思ふ之れを、△機縁○実本とは機は本末有善理即凡夫、縁は師弟和合順は本門の信者熟は本門の修行也、下種の中の種熟脱と云ふは信し初むる処は種也修行する処は熟也、仏果に至る処は脱也、是れを信行証共云ふ也、如説修行の行者を指して順熟と遊ばす也、惣●云ふ時は天下一同の題目種の家の摂受也、実本と者本門本因妙の最初久遠実成の実也、本は自り元本地難思の妙法也、実は境母法身の母・本は智父報身の父是即本因妙の人法也、抛とは諸宗也天下の謗法を指し玉ふ也、△太本とははなはたしきものと也悪の根本と云ふ義也、△亡家は一郡の主一城の主也、△亡国は一国二国の主也指す其の国郡を也、△先兆とはさきにきざす也兆はうらかた共よめり先相の義也、謗法興盛が亡国の先兆也、△就中とは上件の諸経諸宗の中にもと云ふ義也、△念仏は本門正法の口唱の題目のあだ也、真言は本門修行の師弟受持の身業のあだ也、禅宗は事の一念三千本門止観の意業のあだ也、身口意の三業の謗法を挙げて摂する余を也、言は法華本門の三大秘法を末法の信者三業相応して修行せば可し対治す災難を彼の三宗の邪法に依つて三災興起すると云ふ義也、△興起○難(云云)、念仏口業の唱に依つてきゝんの災を興す也、口のわざわいと成り、真言事相の悪行に依つて兵革の災を興し身にきずづく事を得たり、禅宗の座禅の悪念に依つて疫癘の災を興し悪鬼入り替り本心をみだす、此の三災末法当時興盛する事は彼の三宗の専ら起す所也、天台其の外の宗可し在る此の内に先つ指し当る所を挙げ玉ふ也、△焉と云ふ字は置き字也いゑりと云ふ意也謗法の子細を爰で云ひ畢る也、此の上又我家の祖師の事を取り立て挙ぐる也。
△高祖とは一宗の初祖師と云ふ義又次第々々を云はん為に四代さき遠師なる間高祖と置き玉ふ也、俗には曾祖父と云ふむかしおゝぢと云ふ義也、祖師はおゝぢ師匠なり、其のさきなる間高と云ふ字を置き玉ふ也、△祖師とはおゝぢ師匠也又余所で祖師と云ひ先師と云ふは必ずおゝぢ師匠、直に師匠ならず共可き云ふ也惣して宗師のさきの師と云ふ義也爰は次第する間云ひ分る也、△父師とは直の師也、三四五六の四通の申状安国論の作者にまします間爰に引き出し玉ふ也、於て此の上に仏法の高祖と云ふ事可し有る之れ、久遠最初本因妙の高位の名字下種の父にて御座せば也三徳の沙汰可し思ふ之れを、奏公家々々は大裏指す王法を也、奏はすゝむる也、公家は不帯び刀剱を衣冠束帯せり、寛宥を以て為す義と故に奏と□云不許容せ(云云)、△武家は武士也指す将軍を帯し刀劔を著く申胃を以て勇猛を為す義と故に訴と云ひ処すと罪過に云ふ也、大聖の両度の流罪頚の座日朗の土籠此れ皆将軍家のあつかひ也、文章是れ躰の縁語を為し合せ大切也、処の字はことはると読む也爰ではところとよまず、△元弘○威とは鎌倉前代九代の末の執見北条宗鑒入道平の高時と与足利征夷将軍正二位大納言尊氏取り合ひ元弘三年五月廿二日に高時滅亡す、依つて之れに先代百六十年無き恙処の政道皆以て衰へたり爰を以て武威破ると(云云)、△建武○滅とは尊氏取つて代を又新田の左中将義貞と功争をなし二人互に望む将軍を、爰に後醍醐天王義貞を荷担ある間尊氏追罪の宣旨を賜はり、後醍醐第七の王子成良親王を為し大将軍と義貞を為て次将と闘戦す終に義貞打負て北国に打死す、依て之れに尊氏取り代を後醍醐を吉野の行宮と申すに奉る流し也此の事を建武の年帝徳滅矣、委細は式状の談義、職原談義に書く之れを可き見合す也、公家を徳と云ひ武家を威と云ひ可き推す事雖も多しと是れをのせ玉ふ事、高祖興目三代公家をいさめ玉ふ処を不る被れ用ひ間、依て之れに如く是くの滅亡有りと之れ云ふ事也然●後と云ふ詞此の謂れ也、△伝聞とは世間の風聞を伝て也、又大唐古事を伝へきくの意も可し有る之れ、或る語に見て覆るを先車の為し後車の誡と不る忘れ先事を為す師と後事の矣、又大唐にしいふと云ふ所けんなんの地也、車をやれば必すくつがへる也、見ても之れを不る驚か者はやゝもすれば覆へす也、故覆○傾と云ふ也是れを譬にして亡国の事を云ふ也。△耳とは其のけうに乗じて置く事も有り之れ爰は後災をそるべしと云ふ事のみ訴へ申すと云ふ義也、△且はと云ふより上聞と云ふ迄は作者の礼儀をつのり玉ふ也。△仏法○誡とは与同罪をのがれん為也若善此丘の文是れ也、△仁義○礼とは世間の賢人聖人の代を救ひ代を諌る義也、仁は慈悲也、義は和也周公召公等是れ也、諌諍はいさめあらそふ也龍逢此干等是れ也、強柔雖も異りと忠信一至也於て仏法に摂折二門也、言は且つ者一身の与同罪を遁れんため且つ者対し国王に忠節に此の分を申し上ぐると云ふ義也、△下情とは下愚の心也卑下の詞也かせいと読む也上聞の対也、△上聞とは国王の上聞也、是れ迄礼文也。
△望請とは標の段に請状と云ふ事を結する也、釈の段には奏し公家に訴ふ武家に是れ願の義也結する之れを也。△速とは標の段の早と云ふ字釈の段には末世初○誡諦と云ふ処を結する也、△対治すと爾前迹門を云ふは標の段に対治○謗法と云ふ釈の段の正像後爾前迹門○方便と云ふ処を結する也、△被建立○本門とは標の段に被建立○正法をと云ふ詞と釈の段には末世の初○就深故也、或は示すと本門秘要之道を云ふ処を結する也、△天下とは標の文段にも天下とあり、釈の段には国独○応、或は又正法治国(云云)、△羲農とは標の段に静謐釈の段に末法和平之理を専にすと云ふを結する也、羲は伏羲農は神農也、△地上とは標の段に海内とあり釈の段に造立正安国論とある処を結する也、風雨の二は仏法の二字也、如く一の申状に云ふか標の文段には安全とあり釈の段には安国と云ひ治国とあり、是れを結するに五日一風十日一雨の安全の代を云ふ也、唐廬は唐暁●舜也三皇五帝を略●挙げ玉ふ也、△駿河国○侶とは興目両聖の申状には所書無し之れ、上代と云ひ無き其の隠れ故也、郷要両聖の申状には所書有り之れ末の世になる間、富士門徒を名乗り玉ふ底心也、一の申状には所書有り之れ此の申状の奥に所書有り之れ同意也、△誡惶○言とは賞翫の言也、且く恐惶謹言と云ふは劣也恐々謹言は弥よ劣也、天奏状には恐々謹言とは不る書か也、某れ謹言上と書く歟、誠惶○言と書く歟、或は言上如し件のなどゝ書き留る也、天奏状には判無し之れ奥に作者の名不る書か也、又書く事も可き有る之れ歟、文章の内に実名を書く也、例せば日昭謹言上、日朗謹言上、日向日頂謹言上、若は日尊誡惶誡恐謹言、入りて当流に者日興重て言上、日目誡惶○言、日要謹言其の外日賢誡○言、此の申状には日郷誡○言とあそばすが如く首にも実名を書く也、釈の段結の段に実名を書くは不定也有れば用書き之れを無れば用不る可ら書く也、一の申状には日要苟もと釈の段に有り之れ、此の状には結の段に如く首の日郷誡○言と有り之れ其の外例●一の申状に可き得心也、康永四年三月日。
日目上人御申状
一日目御縁起の事、伊豆の国の住人新田四郎源の信綱舎弟新田五郎源の重綱と申す人の御子也、新田足利一筋也、御所御一家也、一説には御堂関白道長の流新田の太郎次郎重房の嫡子五郎重綱の五男共云へり此の時は藤原なるべし、若し爾ら者ニイダと読むべき歟、御母は南条兵衛入道行増の孫子也、生所は豆州仁田郡関白の郷也(云云)又一説には奥州三のハサマ新田の荘、御生所、其筋在り今に惣領は二つひき、そしは亀の甲の中に瓜の文、目上の御筋は亀の甲也、羽黒の山武士と同道有て修行の日走湯山へ参入と(云云)、御縁起を直に不見、雑談、或は聞書の内多説をのする也藤原氏の説能き歟、八十九代亀山の院の御宇文応元年辛酉御誕生也、木性にて御座す、虎王殿と申し十三才にて伊豆国走湯山に御登山、又湯の山共伊豆の山共云ひ習はせり走湯山の事也、真言半学の天台宗也今偏に真言也、此の御児利根聡敏にして修学にうとからず手跡超え他一山是にかたぶく、十七才迄御童躰也、爰に興上為に退治の従り身延彼の山に移り玉ふ、小師は円蔵坊と申す彼の坊に興上立寄り玉ふ御児を有り御覧文を送り玉ふ、其の時歌を遊ばし障子の中より投げ出し玉ふ、歌に云くかよふらん方ぞゆかしきはま千鳥ふみすてゝ行く跡を見るにも、其の後酒宴乱舞様々の会釈也、其の時伊豆山の一番の学匠所化名は三位阿闍梨、後には式部僧都云ふ人に対●興上仰に曰く無間地獄の主し式部の僧都とは御房の事歟(云云)、以て若人不信の文を帯遂に云ひ詰め玉ふ也、御児是れを有り聴聞自解発明●法花皈伏の心銘す肝に、依て之れに興上御皈路の跡を追ひ夜にまぎれ歩行にて追ひ付き玉ひ有り御契約、身延へ御同道あり建治二年丙子十一月廿四日也、落髪の後宮内卿と申す新田の卿公申す是れ也、高山に雪深き朝には向ひ嵐に薪を拾ひ深谷に氷厚き夕には凌いて寒を水をくみ、菜を摘みては知り飛花落葉の無常を菓を拾ひては願ふ阿耨菩提の仏果を年々修行の誡は銘し求法之肝に日々学問の功は洗ふ利生之眼を、昼は頭に戴き水木を頂上既にくぼくなり夜は以て身を為し床座と常随給仕し玉ふ、雖も然りと謹行学問をこたり玉はず御かうべの凹む事御行躰の謂也、大聖と開山と自身との御天奏として上洛だにも四十二度也、如之開山へ五十八年の間の奉公如影隋形の御忠謹非所に及ぶ凡慮の、其の上高祖にも七ケ年の間の御奉公常随給仕其の外高祖の為て御代官と両度の御天奏流難等新弘通所建立の御行躰中々●書き尽し、さればこそ直弟にだにも無き相承三大秘法を目上に御相伝也、依て之れに付法は日興学法は高祖にて御座す非平生の学問に三大秘法末法万年救護の血脈の御学問也、不る知ら人は当門家の学者も且く玄文止等の学法と思へり浅智也不信也、当家の慈父非母の沙汰日目と申す御弟子無くんは以て何を下種の法門と可けん云ふ耶、さてこそ本尊にも日目上人遺弟と日要も堅くつのり目上の申状にも三大秘法を遊す事大切の事也、うらめ敷き哉今時分の学問者不知ら当家の深意を而還つて当流を手浅く思ひ不る至ら御内証に事不敏也(云云)、せめては故あるべし共思ふべき処に物しりがほして芥子計も不知ら深意を現当の法罸可し改む々々、日朗の耳引法門とは此の三大秘法也追て可し聞開山の本六新六十二の中に第一の御弟子日目也、依て之れに御存日の最中に身延再興の久遠寺たる大石寺を目上に御相続也蓮蔵坊と申す也、此の上両状の御大事血脈相承は目上への御付属也、然るに開山重須に御住の時日々従り大石御出士と(云云)御年七十四才にて御円寂、興上は八十八にて二月七日、目上は同年の霜月十五日也、九十六代光厳院の御宇也、委くは一の申状に書く之れを可し見合す、日要奏聞の後大石にも此の状をよめり是れ更に無き由緒事也。
入文。標釈結の三の段有り之れ、日蓮と云ふより三時弘経次第と云ふ迄は標也、右謹云より人栄国栄と云ふ迄は釈也、望請と云ふより結也。△日目の二字肉と云ふ字に切る也、爰に浄法房と云ふ者日目と云ふ名を望む高祖卿の公へ相続の間此の外二人と不と可ら叶う(云云)依て之れに日と天とは一物なりとて天目と付く也、如き此の徒ら人なる間後には正安年中に立て一門を本門十四瀕を以て依経とす興上の御法門を盗み入れて沙汰するなり、更に以て非正意に初心には至極の立て様也、深旨を沙汰する処は一致にも劣れり況んや於て当門に不る及ば沙汰に重也。△殊と云ふ宇申状又は勧進帳などに置く字也、先つ国王の恩を深く可き云ふ為に殊にと置き下ふ也、△天恩とはあめのめぐみとよむ也、国王の恩を指す也。△且一代○前後とは在世を指す也、前は爾前後は法華也。△且三時○次第とは滅後を指す也、三時は正像末也、弘経の次第は小権迹本の次第也、経には因縁及次第とあり、△退治○謗法とは三時の中の二時、小権迹本の次第の中の小権迹を対治也、所弘は正像の弘経を指す也。△崇末○経とは三時の中の末法次第の中には本門也、当季のとはときにあたると読む也、余の申状には法華本門の正法とあるを爰には打つけに当季の妙法蓮華経と遊ばす事は高祖より直受相承の三大秘法を釈の段に広く可き書く心が浮ふ故に、法蓮華本門とふうたいをばいはずして其の侭妙法蓮華経と顕し玉ふ也、言は法華本門の正法と云へば或は一品二半或は八品等にまぎるゝ也、故に末法当季の正法は下種の妙法蓮華経三大秘法ぞと云ふ事也、当家の法門は是れ躰の処が習ひ有る事也、加様の処に可き奉る付け信をば不●知ら目上の遊ばしたる聖教を見ずなんどゝ云ふ族は浅智也不信也、蛇は見て一寸を知り大小を人は聞て一言を知ると賢愚を云ふ事可し思ふ之れを、外典八万の書籍に仏法の一言も無し之れ爾前諸経は雖も多しと記小久成等の一言の法門は無し之れ可し思ふ之れを。△一巻とは惣●書籍を巻と云ふ、昔は殺青書とてあをき竹をけずりしてほしてあんで物を書いてまく也故に巻と云ふ也、又巻の内の篇々の中の章と云ふを章々段々を書いたる書を巻共云ふ也、今安国論に章段建立有り之れ可し思ふ之れを。△一通とは書状をば一通と云ひならはす也、故に申状なる間一通と云ふ也、章段無き之れ一とをりの書状と云ふ義也是は分別●云ふ時の事也、巻共通共一つに用いても不る苦ら也、其の証拠は文永五年の申状に勘文一通撰し之れを(云云)、是れは安国論の事也可し思ふ之れを。△日興上人とは上人の事、事林広記に内に有り智徳外に有るを戒行曰くふ上人と也(云云)仏法の長者を指す也徳君子の類也、於て官位に上人と云ふは法師には勝れ律師には不る足ら也是れ位君子の類也、聖人は法橋律師に当る也、然る間高祖をば聖人と申し日興已をば上人と書く也、分別する時有り高下師弟の差別也、理即名字の習也、入は奥に一躰也何を書ても無き害歟、常には可き書き分く也、聖と上と字別なれ共義同き之れ也、惣●出家に四位十三階と云ふ事有り之れ、一端書かん之れを一に法師位二に聖人位三に和尚位四に大和尚位也、官に三重有り之、律師僧都僧正也、十三階と云ふ時に法師位に三あり、法師入位法師住位法師満位也、聖人に二有り之れ権律師正律師也和尚に四有り之れ、権小僧都小僧都権大僧都大僧都也、大和尚に四つ有り之れ、権小僧正小僧正権大僧正大僧正、已上官位合せて十三也、官と与と位分別する時は法師位と云へば惣て出家の位迄也、強ち非ず昇進の義に於て公場に昇進する処の官位と云ふは聖人律師已上也、律師と云ふは官也、聖人と云ひ法橋と云ふは位也是が相当る也、さて不●昇ら官に位計りすゝむもあり、不●昇ら位に官斗りすすむもあり、僧都は官也法眼は位也僧正は官也法印は位也是も亦官位を兼るは勝るゝ也、相当の官位を不るは兼ね劣也、今時分真言天台に法印にのぼる者の多しと之れ云へ共官は僧都也故に劣るなり、若し僧正にて法印ならば可き勝る也、是れ亦希なる義也、其の外位には易く昇り官には●進み事も有り之れ、或は位はあがれ共官は賤く、或は官は高けれ共位卑きは何も劣也、此の事一け状の習ひ不る輙ら事なる間粗記●之れを存略す、所詮末法は理即名字の次位未断惑の凡夫也、仏法の上の官位と云ふは名けたり断惑に、爰を以て高祖を聖人と申し弟子を上人と云ふ、此の上に可き習ふ有り子細、然る処他門の族、下剋上に而高祖より高官高位にのぼる事、先つ俗文有職の道を不知案内也、仏法の行位を背く事は不及ば沙汰に等妙二覚に立て師弟を在世脱形の釈迦上行を本尊とする間、迷倒の至極不る及ば言舌に重也可し習ふ之れを。△元徳二年とは今所の奉る読み四の申状には非ず度々の奏状可し有る之れ、興上御円寂の五年さきが元徳二年也。△三時弘経次第とは三説有り之れ一には大聖の御抄二には開山の御作三には目上の御作云云、蓮興両上の御作文ならば作者書き年号書き例●上に可し有る之れ、然る間目上の御作也、又目上の御作と云ふに於て二義有り之れ一には三時弘経の様を遊ばしたる書也、二には此の三の申状に三時弘経の事を懇にのせ玉ふ也、故に此の状をさす共云へり、是れ亦任て御文躰に得る心時、此の状の事に非ず、其の故は副へ進ず一通と有つて三時弘経の事と有り之れ此の状ならば副進ず共一通共不る可ら有る之れ也、祖師日蓮先師日興と遊ばして三時弘経の作者日目也、血脈也可し思ふ之れを、此の次第と云ふに外用の一篇は正像末の次第也、入り末法に亦血脈の次第可し有る之れ可き習ふ之れを也。
△案内とは一代聖教正像末の案内也、右と云ふ字を以て云ふ時は上の一代の説教三時の弘経、爾前迹門の謗法末法当季の妙法の正法を指して案内と云ふ也、仏の未来記なれば案内也。△独釈尊とは唯我一人也。△取捨とは章安は取捨得●不同一向(云云)取は本門捨は爾前迹門也。△進退とは像法は小権は退、迹門は進末法は迹門は退本門は進也。△非人力とは仏意内証による也無きを私云ふ也。
△抑と云ふ字は疑ふ方にも用ひさてもと云ふ詞にも用る也、爰はさてもの意也。△一万○塔とは委しく云ふ時は日本の寺の数一万三千三十七個寺也、或は一万一千三十七個寺共あり、是れは昔の事也今可し有る興廃、△陵夷とは陵はみさゝぎとよむ高き義也夷はたいらか也と読む平等の義也、礼記には土の高を曰ひ丘と、大なる阜を曰ふ陵と矣、毛詩の一には既に見君子を我か心則夷なり矣、如く見るが君子を高下も無く平等なる形貌不増不減の躰也、如く常の講経と云ふ意也、世間に陵谷の変と云ふは海は山になり山は海になるが如く尊貴の人は卑賤となり卑賤のものは尊貴となるを陵谷の変と云ふ也、△三千○壇とは委く云はゞ三千一百五十一社或は三千百三十二社と(云云)故に余と云ふ也。△如在とはいますが如しとよむ論語に祭つる神を如し神在すが矣、言は神の躰はみへず共います様に敬へと云ふ意也、如在を俗に疎畧の義に取り成すは誤り也。△礼奠とは神をおがむを礼と云ひ幣帛をたてまつるを奠と云ふ也、礼記の王制篇とり釈菜を奠る幣を矣文集に戯に奠るに無し葷●は精進のな腥物也、奠の字とつゐゑと云ふ費の字の書き様別也、大なる相違也、△顕教は華厳天台密教は真言也、△大○祈祷とは大法は顕教にかゝり秘法は密教にかゝる也。△自他叛逆とは自界反逆他国侵逼也、顕教は大法と対し密教に秘法護持に祈祷不叶而に無し験而国土の災難に自他の半逆随日に逐年増長に強威と対する躰用法躰等可し思ふ之れを、△神慮とは、かみの、おもんぱかりなり、くろしと云ふ廬の字を神慮のりよに書いたる神抄等有り之れ誤り歟、地盧の研精と云ふ時くろしと云ふ字能き歟、可し勘ふ之れを、おもんぱかりと云ふ字は下に心を書く也、盧是れ也、△微菅とは微(はなし共いやし共すこし共)読む爰ではすこし也、菅をふえ共つかさどる共よめり爰ではふえ也、言はふえ竹ほどのつゝ也、微と云ふ字にまぎるゝ字多し是れを分別すべし、微子の声五音の内の微羽と云ふ時用る也、てうの声もありめすと読む也、徼かうの声、をもむき共もとむ共よむ、徹てつの声とをると訓る也、為に初心の者の記す之れを△秘法とは三大秘法也、此の申状の肝心魂魄也、△所謂とは上に題号を挙げて下に子細をことはる時置く詞也、有と三云の詞を請けて所謂と(云云)、三大秘法の名目は大田殿(冨木殿共云)への御抄にも報恩抄等にも有り之れ、雖も然りと三大秘法の信心の壺尊敬の図目上御一人也、正智之妙悟宿習之薫発非ず所に及ぶ凡慮の諸門徒雖知ると名目を、不る知ら秘法の躰を者は夜中之の錦、深山之●類也殊に冨山門徒の中にも日郷已来代々の相伝之一大事不可ら過ぐ之れに、遠く者は汲み日要之法水を、近く者受け日杲之相伝を、日我令る稟承せ処也、但諸学匠口に雖も云ふと身に不行は、身に雖も行ふと心に証せ、々する心に則は行し身に々する々に則は可し云ふ口に、恐くは当家一大事の三大秘法を如く先師の信敬申し、於て其の上に不惜身命の志あらん人可き希ふ歟、人皆読み之れを人皆闇し之れに、可し思ふ之れを種脱の黒白を不るは知ら真実に盲目也、抑目上此の大事を御相伝有る之れ事よのつねの事に非ず直授の御弟子にだも無し御相伝、況孫弟子御若輩彼れ是れ以て不審也、汢、既に退け丹朱を以て重華を為す儲訓と道徳深義のうつはものなれば也、目上亦当家の信心の志本弟子に勝れ玉ふ故也、依法不依人可し思ふ之れを、常随給仕の御奉公不惜身命の御忠信如影随形の御行躰身延冨山並に七十四才迄寒中自身の御上洛、頭のくぼく成り玉ふ程仕へ給ひてこそ、大事をば御相伝候へ、殊に童躰の御身として、かちはだしに奔り出で御発心有る程の事なれば万事不及ば沙汰に、栴檀は二葉よりかうばしきとは是れ歟、非ん権者に者何でか如く此の有らん御座哉、三大秘法の御沙汰は門家一大事の相承なれば不載書せ之れを非ん正信之器に者敢て不る可ら相伝す而已、△大師の解釈とは天台伝教也、上に天台伝教等の大師と挙げ玉ふ間爰には且く大師とあり又兼たる両大師を詞成り。△炳焉とは二字を合●あきらか也共あらはりなり共訓ずる也、焉の字は置字にも書く也、いゑりの意也、いづくんぞ共これ共読む也、炳焉也とあるべし、也と云ふ字の無き本有り之、対句なる間可き有る之れ也、△就中とは取り分け日本国の故をいはん為也、△我か朝は是れ神州也と目上御自筆に有り之これと云ふ字有つて者の字無し之れ対句可し思ふ之れを、△神者○礼とは神は宿る正直の之頭に矣謗法の非礼を不る受け玉は也、つゞめて我か国の主し鎮守を挙ぐる時は我か朝○州也矣、広く教主を挙ぐる時三界○国也、於て茲に主師親在滅の不同可し習ふ之れを、△仏則○法とは爾前迹門の謗法也、仏者則とあるべき也、対句字数義味可し勘ふ之れを、者の字可き有る之れ也、仏は者本門寿量の仏也。△然則上件の義を受けて然ればとあり、是れは作者の如く此の教誡申す事何ぞなれば仏神人国繁昌安全の為に申し上ると云ふ礼也、仏とは広く云へば三世十万諸仏師範、本尊を云ふ時は本門の釈尊也、於て之れに亦在世滅後種脱の不同可し有る之れ神と者惣じて日本大小の神祇、別しては法華の鎮守天照八幡也、国と者広く云へば南閻浮堤、、別しては日本国也、人と者広く云はば有情非情三界衆生、別●云へば日本国の一切衆生也可兼ぬ唐土天竺をも、所詮仏神の本地垂迹此の土の依報正報を云ふ也、是れ即即身成仏娑婆即寂光の底心也。△望請とは標の文段に請ふの状と云ふこふの字、釈の段の天下○いたし国中しづめん、或は又人も栄え国も栄ゆ等と云ふ所を指す也、△殊と云ふ字は標の段にも殊にとあり、△天恩とは標の段にも天恩とあるを結する也、△諸宗○法とは標の段に爾前迹門の謗法とあり、釈の段に取捨の々の字或は仏則誡謗法或又爾前迹門謗法(云云)是れを結し玉ふ也。△一乗○典とは標の段に末法当季妙法蓮華経矣、釈の段に秘法有り三○信敬矣、是れを結び玉ふ也、△金言○閻浮とは一乗妙典の再釈也、妙法と者法躰の南無妙法蓮華経也、唱と者唱導師の本尊也閻浮は戒壇也、△不絶とは無令断絶の流布の時を指し玉ふ也、三大秘法を結する文也日蓮か慈悲広大(云云)、△玉躰とは国王を指す也褒美の詞也、流布の時の賢王也、△匿とくの声かくれ共つゝが共よむ義同し之れ、△宝祚とは王の在位を云ふ也、宝は尊重する詞也、玉の字の対也、王の御年を宝算と申す此の類也、祚その声さいわいと訓ずる也、二度在位あるを重祚と云ふ也、△天地にとよんでよろし但天地を読んでも無き害歟、△地望とは地盤ののぞみ也、△後日とは大聖開山より後と云ふ義也、天奏にと、よんでよろし、をとも可き読む歟、地の字はところとよむ、のぞむところと云ふ義也、爰は畢竟流布の時の師範檀那戒壇を挙げ下也、広布の日の日目門家天下の大導師たるべき旨爰元に可き習ふ事多し之れ可き被る付け信を者歟、又御相承眼前なる上は不可ら残す疑網を、此の状中にも五段四悉等の心仕も可し有る之学者推●可き知る之れを也、一二の申状見聞取り合せて可き付く信を者也、元弘三年十一月日、年代記等に正慶二年とあり可し勘ふ之れを、一の申状の私にも其の子細懇に書く之れを間爰に略す之れを、取り分け一の申状を以て此の状を見以て此の状を一の申状を可し見合す、本迹種脱の節目自然に可き為る一徹也、対句帯句等の沙汰一ケ条計り記す之れを余は可し推す、其の外音声等の義雖も有りと之れ浅学の者は不可ら及ぶ分別に、至て深知に者可き為る存知之分間略●之れを不る書か也、相構え々々以て浅智浅学を深意の御作意を不可ら軽す御冥感恐々。
日興上人御申状
一開山上人御縁起事。駿河国の御出生、俗姓は由此御名字、御母方は河合也(云云)、一説には木野御名字共云へり、甲斐国三牧の日興と御大事には有り之れ、開山御相承の本尊の注文には遠江国住、甲斐国大井の橘六三男、橘三郎光度は日興か舎弟也(云云)此の時は紀氏可し成る、此の説能き歟但し可し尋ぬ之れを、又武蔵国綱島九郎太郎入道は日興か継父也、又云く綱島九郎太郎入道子息九郎二郎時綱は日興一腹の舎弟也(云云)、まくは松に竹也、一説には庵原一家共いへり、いはらは舞鶴也、但し此の筋歟多説可し勘ふ之れを、駿河国冨士郡岩本の実相寺学頭職を持ち下ふ矣真言宗の寺也、今は法花寺也、身延門徒也、八十七代後嵯峨の御宇也、寛元四年丙午御誕生(迹門家には五月八日産と七才の時実相寺へ)水性破軍星にて御座す也、御生所甲州大井荘、幼少にして駿州四十九院の寺に登り習学し冨士の麓須津の荘良学美作阿闍梨に極め外典の奥義を須津庄の地頭冷泉中将に歌道を極め下へり、初は伯耆房、後には白蓮阿闍梨と申す、高祖に御伴有つて佐渡の流罪の時も離れ不給は御一期の御行学不及ば沙汰に高祖嫡々の御弟子、万年救護の写瓶たる上は不る及ば書き顕すに凡筆に重也、正応元年十二月五日、身延ヲ御離山、駿州に御遷り先つ河合に御休足、其の後大石に御遷り身延出御は四十三の御年也、其の後大石を目上を目上に有つて御相続重須へ御遷り久遠寺は本尊堂、身延相承是れ也、本門寺は御影堂、池上相承是れ也、流布の日の戒壇は本門寺、血脈の法主は久遠寺たるべし、其の故は血脈両箇の相承たる化儀本因の巻物、又高祖より三大秘法の頂戴日目上人、直授相承可し思ふ之れを誰か是れを可けん諍ふ哉、開山御詠歌に八十へて見れば昔の春よりも尚色まさる花の面影、一住は花を詠し玉ふ也再住は信心の厚薄、法門の浅深と可し得意、大聖佐渡已前をば仏の四十余年とをぼしめせと(云云)、可し思ふ之れを、又御詠歌にはかなくも実よりさきぬる花を見て花よりなれるみと思ふ哉、是れ一住は華果の事也、底心は迹門は従因至果始覚始成果後方便、本門は従果向因本覚久成本因妙の処也、従本垂迹迹依於本の意遣ひ可し思ふ之れを、釈尊上行本因妙日蓮可し思ふ之れを其の外御辞世御一代の御行学別●可し見る之れを広き間略す之れを、御一代の御天奏及び五六度に申状何れも有り之れ可し見る後に、文底は五人所破抄の如し、此の四の申状は嘉暦二年十一月十七日の奏聞也四度目の奏状也、興上の本懐殊に依て有るに御許容日中二是れを読み申す也、正和二年七月日と書きたる本も有り之れ、元徳二年の申状は目上天奏の時雖も被ると副へ進せ於て樽井に御円寂の間無き奏聞歟、九十六代光厳院の御宇正慶二年癸酉二月七日八十八にて御円寂、八日酉時入棺戌時御葬送也。
入文、標釈結の三有り之れ、日蓮と云ふより所造書釈等と云ふ迄は標也、右度々と云ふより皆以て符合すと云ふ迄は釈也、然者早と云ふより下は結也、△弟子とは昆弟の義父子の意也、直授付法なる間弟子と遊ばす也、目上も学法の直授なる故弟子と遊ばす也、郷上要上は代々懸隔して高祖より遠き間、遺弟と遊ばす也可し見分く之れを、△日興とは日興の二字を反せば仍と云ふ字に切る也、仍は声はせう・よる・しきりに・なを・またと訓む也、こうとよむ時は平声也、けうの時は他也。△重て言上とは此の状已前に度々奏聞有る之れ間重ねてと遊ばす也、上代と云ひ門下の開山、嫡々にて御座す間、言上と計り遊ばして深く非尊敬の所礼に。△先師申状等とは安国論文永五年八年の状を通惣●等と云ふ字を置き玉ふ也、分別して云ふ時は安国論申状目安の有る不同也五六の状は目安也、雖も然りと興上御天奏有る之れ故に申状也、然る間文永五年の申状八年申状と此の文章の面にのせ玉へり、先師の申状等と遊したる内にも、亦安国論を約る間是れ可し思ふ之れを常には申状安国論と云ひ替ふべき也、△一つ所造の書釈等とは興上御自作の書釈也、故に作者書き年号書き無し之れ、一つと云ふ字あまた此の内に有る之れ間一通とは無し之れ、一ケ条にはと云ふ義也、等の字の心はあまたの書釈を云ふ也、謂く漢土仏法先御沙汰次第図之一通、本朝仏法先御沙汰次第図之一通、三時弘経次第、並に可き建つ本門寺を事一通先師書釈要文一通、其の外追加等也、委くは冨山門徒存知之相●有り之れ可し見る之れを△右度々と者高祖興上御自作の書釈を指して右と置き玉へり、度々は数け度也、此の外数通の申状有り之れ可き見合す也、弘安八年の状正応二年の状同三年の状嘉暦二年の状等也。△秘術とは秘事の術治と云ふ義也、術はまじなふと訓む也、△佳例とは、よきためしと、よめり、△隋之皇帝とは隋の文帝の事也之の字可し有る之れ、桓武の武の対也可し見合す、漢土に和国則に亦、隋之皇帝に桓武天王、天台大師に伝教大師は破に止る、十師に六宗邪義に謗法治むに退け乱国に異賊と対する也、例●之れに可し知る、之の字無んば余の置字可し有る之れ、写本の誤り歟。△付内付外とは内外典也、世出の二つ也。△如来の金言とは付ての内に再釈也、△明王善政は付ての外に再釈也、△近代とは惣じて十代の内を指す也、爰では八十八代一院の御宇・正嘉の大地震・飢饉疫病・其の巳来正元の大疫病文永彗角二星・同十年大風・日月の天変二月の彗星同十一の大風早●弘安元の天下の疫病・同六年の彗星・同十年の飢きん・永仁大地震乾元大洪水・嘉元のききん徳治の旱●等也。△逐年強盛とは当代に至つてと云ふ義也、此の奏状奏聞九十五代後醍醐天王の御宇也、△凡伝教とは此の状専ら本迹相対が面也五人方の状とは各別也可し思ふ之れを、△如来○次第也、如来は如来神力品の題下種要法の父の如来也、付属は本化惣領の上行末法の付属也、次第正像末権迹本属累品の惣付属是れ也。△大師○証也とは大師は天台伝教也、上に天台伝教とある間、爰に但大師と上を受けて遊ばす也又一言に二人を兼たる故也、於て当家に或は大師或は本疏、或は先徳などゝ天台家を指して無名に不可ら云ふ内々の略大綱内談には不苦ら公堺の披露には可し恐る之れを家々の尊勝可し思ふ之れを、解釈明鏡とは前後六ケの釈因薬王菩薩遠沾妙道正像稍過已等也、爰には止善男子の止の一字天台伝教をとゞめ玉ふ文也、高祖、無時無く機無しと付属御定判有り之れ、△為仏○法とは世間仏法也、△被早○者歟とは王前の問答也鎌隼早勝可し思ふ之れを沙汰の二字文選に沙汰得と金を、言は混乱したる善悪をゆりて捨て非を取る理を義也、△蜂起とははちをこるとよむ蜂の巣を打ち破れば蜂出て人をさす也、反逆に比する也底心は故事を蹈る歟、呉・越取合の時は越赦す呉を々後誅す斉、臣下の呉子●呉王夫差を諌て云く呉に有るは越腹心之疾なり斉之於るは呉に疥癬也願くは王赦●斉を伐てと越を(云云)呉王不用ひ是れを、却ち属鏤の劔と云ふ劔を賜ふて子胥に自殺せしむ、子胥遺言●曰く必す取り吾か眼を置け呉の東門に以て観ん越兵之入るを呉に(云云)、如く案の無く程従り越打ち入る、然る間呉王打負け自殺する時蔽て其の面を曰く無し以て見る子胥を、其の時子胥か眼蜂と成つて越兵をさす共云へり、又子胥いけどられ在て越に被る誅せ、其の魂蜂となりて戦ふ共云へり、△是等○等とは、此の書釈等は五六の申状、開山自作の御申状を兼ぬる也、△皆以符合とは、如き此くの仏の未来記不る相違せ間、諌め申すと作者の所礼也、△然者上の様躰然なりと思召す也、謗法を対治し正法を立てられよと也、早とは標の段に早と云ひ釈の段には早被尋聞とある処を結し下ふ也、△対治○謗法標の文段も同し之れに、釈の段には凡伝教大師は○迹門也とあるを結し下ふ也。△被建立○正法とは、標の段に被立○正法矣建立の二字上と下とに分けて置き下ふ也、△可為○全標の段同し之れに釈の段には為仏法の為王法のとあるを結し下ふ也。△仍とは上件の子細による也、ちなむ也、△重て言上とは、標の段に日興重て言上とあり、釈の段に度々具に言上とある処を結し下ふ也、如件とは標の段の事と云ふ字、釈の段の畢と云ふ字を結し下ふ也、如件とは上件のごとしと云ふ意也、又安全を願ふ詞也人牛と書く質素にして三皇の昔の如くと云ふ義也、執達如件と書は等輩也言上如件は覚翫也、誡惶誡恐謹言と云ふよりは劣也、首尾共に此の申状は平生の覚翫也、一二三は至て賞翫也、嘉暦三年十一月十七日此の御状は申状の正躰、作文の本意也、其の故は高祖二通の状は鎌倉殿へ天奏書の目安也、然る間於て門家最前の御奏聞は是の状也、文章の金言法門の妙句、更に非所に及ぶ凡慮の、至て上之上に者不とは知られ是れ其の謂ひ歟、此の状の御作意、於て浅智不信の者に、万分の一分千分の一分も不可ら知る、愚亦雖も黷すと帋面を誠に九牛か一毛も不可ら達す御内証に墨を呑める蝿の白帋をけがし土を含める燕の好席をひちりこに、するに似たり、初心浅智之後生予か注記の胸中尚可し●る量り何に況んや興上の御内証をや、冥感雖も●り多しと自りも愚初心の者のため将来不用之学問者、不信浅学の所化のために不顧み思慮を任する筆也。
文永五年の申状
一此の御申状の縁由は文応元年の安国論の勘文の九年後、文永五年に四方賊来の牒状有る之れ間、重て勘文符合の旨を驚し御申しある也、是れは王位へ天奏の状にあらず鎌倉殿への目安也、申状と目安と認め様各別也文躰も亦不同有り之れ、申状には宛所無し之れ奥に作者の判形無し之れ、首尾の間に実名を書き中に書き載せ或は言上或は誡惶○謹言等と始終共に書く也、早と云ふ字若し又殊と云ふ字請と云ふ字蒙と云ふ字などを書く也、目安如し常の書状の始終の詞等不定也、候と云ふ字一字用る也若し有ら所用者二字迄は赦す也、首の行に一字は定る礼也、五六の申状同し之れに、二行目には抑と云ふ字歟若しは仍と云ふ字歟を置く也、五六共に抑とあり、首には候と置いて奥の留る詞には恐々謹言とあり、宛所を書いて下に名乗判形有り之れ、又と云ふ字も有ら所用者目安には一字書く也二字迄は事に依て赦す也、三字と不可ら書く是れ自然の事也今の状には無し之れ。
入文、文段は其の後と云ふより無極に候迄は標也、抑と云ふより必定也と云ふ迄は釈也、而日本と云ふより下は結也、△書絶て不申さとは書状などの音信絶えて申し不る入れ義也、△諸経は仁王経金光大集薬師経等也、△勘ふ之れをこれとは安国論也、△他国は四方のえびす也、△撰とはえらぶ也、文選に弃て瑕を録す要を矣、悪をえらび善を取る義也、あまたにて作る時は選の字を用ふしねう也、一人にてえらぶには撰の字てへん也可し思ふ之れを、△御辺とは左衞門の尉を指す也侍の詞也貴殿之御辺貴殿の御館などゝ書く也、武家の上の文章也、至て賞翫にあらず又さのみくだらざる詞也、△進覧とは指す将軍家を也、其の時の将軍は宗尊親王也、雖も然りと北条進退なる間執見則将軍の様也、不る知ら人は最明寺法光寺にどを御所と得心也、然る間執権を指して進覧と書く也、進覧の二字を分別する時は付けて左衞門に進め執見に将軍御覧あれと云ふ義也、是れは三重の意也、奏者と執見と将軍也、二重の天奏書の類也夫と者可く預る御披露に候と書くは一重也、被る達せ上聞に様可く預る御披露に候と書けば二重也、京の将軍へ平人などが御内書などの御うけを申さば、菅領の家風を宛所として従り菅領将軍へ被る挙げ也、披露と書けは菅領へ披露也、上聞と書けは従り菅領将軍の上聞に達する也、蒙古とは蒙は々昧の義也、えびすの無道を云ふ也、古は胡也、△牒状とは牒はふだ也、字訓には書版也と(云云)、長さ一尺二寸のいたに書きたるふだ也、文永五年に蒙古よりよすべしと云ふふみ来るよし風聞する也、△蒙古の牒状に云く天の眷る命を大蒙古国の皇帝奉る書を日本国に、朕惟れは自り古小国之君境土相接つて尚務む講し信を修むるを睦を況や我か祖宗受け天の明命を奄有し邇夏を遐方異域畏れ威を懐つく徳に者不可ら悉く数ふ、朕即位之初め以て高麗無辜之民を久く●る鋒鏑に即令罷め兵を還し其の彊域を反さ其の倪旄を、高麗の君臣咸く載て来朝す義雖も君臣と歓若し父子の、計るに王之君臣を亦已に知る之れを高麗は朕之東藩也、日本密邇し高麗に開闢より以来亦将に通んと中国に、至て朕か躬に而無し一葉之便り以て不通せ和好を尚恐くは王国知る之れを未審し、故に遣し使を持て書を布告す朕が志を冀披は自り今以住通し間を結び好を以て相親睦せん、且つ聖人は以て四海を為す家と不るは相通好せ豈一家之理ならんと乎、以て至ては用るに兵を夫れ孰れか所好む王其れ図れ之れを不宣、至元三年八月日。
或る記に云く此の牒状公家に参着する事文永五年二月一日也、就て之れに辺状可きや有る之れ否哉の条、使を切るべきや否や諸道の勘文を召す、公卿.僉数ケ度あり異議様々也しかど辺状無くして牒状計り辺されけり、是れ即虎を野に放ち狼を飼ふに不異ら、此の牒使夜々筑紫の地を見廻りけり、船津軍場迄悉く差図をし人の景気を相し所の案内を注し皈りけり、其の後文永十一年十月五日の卯の時対馬の国府の八幡宮の仮殿の中より火炎をびたゞしくもえ出でて国府の家の人等焼亡出来する歟と見る程に、同日申の時つしま西面さすの津に異国の船四百五十艘三万人計り乗て寄せ来る等(云云)、文応元年已後九年也、最明寺は七年前に被る卒せ也、故に故と云ふもと共ふるし共よむ古人の義也、没故と云ふに同意也、△風聞とはつたへきく義也、文章に和いで読む時はほのかにきくと訓む也、風の字かぜとよまず、ほのかなる義也、余所にては、はなるゝと訓めり、例せば楚の屈完が詞に君処る北海に寡人処る南海に風馬牛たにも不相及ば不る慮ら君之渉るを此の地に也矣、斉の桓公楚を伐つ時のことばたゝかひ也、世語のはなしと云ふ字にも書くと之れを云ふ説も有り之れ、△経文は四経の文並に法華経にも有り之れ、△必定と云ふ字法花宗として公布の誓を可き存す也、争か不らん符合せ哉、△日本国中の中の字可し付く心を、唐土天竺正像二時は本化の菩薩の出世の非時国に、又日本の中にも高祖旦一人と云ふ義也、唯我一人の主師親を名乗り給ふ御文躰殊勝成る哉(云云)、此の御抄の所詮一大事は此の日蓮一人の字に収る也、此の状を結び下ふ処の本尊師範是也、当ると云ふ字此の状の眼字也、深く可し習ふ之れを三大秘法等可し思ふ之れを、西●調伏の義全く大日不動等の権教の仏天は不可ら叶ふ、迹門の仏神是亦過時也、於て本門に一人と遊ばす処を他門の諸人脱形釈迦熟益の仏天薩●を本尊とする事誠に師敵対の大謗法不る及ば沙汰重也成仏尚以て可し推す之れを、邪智心●曲と者自立廃忘の五門跡等是れ也、下愚者咲ふ上智を者是也、或は天台の章疏文字読み計りを得心、或は法華談義の口作の百座二百座、字をぼえして厳ざり化義を嗜む言便を計りにて不至ら宗旨の実義に不辨へ成仏之所詮を誠に鸚鵡之●り猩々之も言ふ類也、世間の浅間敷き兵書にだにも言語応対は者情之飾り也、言ふ至情を者事之極り也とこそ、太公望も文王の師と成る時も教てこそあれ、文章のうつたかきを以て仏と成るべからず、荘厳のけたかきを以て出離の道とせず、可き奉る付け信を者也、△調状とはとゝのへふす也、言は仏法の戦具をとゝのへて賊徒を皈伏せしむると云ふ事也流布の日の事也、其の時調伏の作法諸門徒の沙汰色々也、所詮大慈大悲の末法の法主の調伏なれば、強ち真言等の邪見横入の加持にてあるべからず、先幡と者妙法蓮華経の大曼陀羅、十界の聖衆勧請の御幡なるべし、本化四菩薩国王関白大将軍等と成て末法の導師をかこみ、煩悩即菩提の珠数のつかを打ものとし、質直意柔●の業即解脱のうす墨の衣を忍辱の鎧にき、生死即涅槃の金剛不壊の袈裟を●にかけ、虚空不動定の弓に虚空不動恵の矢をはげ、虚空不動戒の膝を屈し信心の大地に立てて、当躰蓮華の甲を着妙法一乗の大白牛車は速疾頓悟之場に進む也、信心堅固の楯をつきならべ、受持本因の号令を厳にして口唱本果の南無妙法蓮華経のときの声を一度にどつとあぐるならば、四方の賊徒は解き組髪を邪見の劔を腰に収め放逸の具足をぬぎ捨てゝ合せ信状随従の掌を降参の威儀をなして、四方へさつとしざるべし、其の時こそ有徳王覚徳此丘の昔に帰り誠に立正安国論の御本懐を遂げ下ふべき也、鈍刀ほねをきり利劔ほねをくだかずとは是れ也、誠に以て我れ等衆生開き運を於天に延べ命を於地に天下安穏の栄花は者余り南浮之内に地上泰平之歓喜は者伝ん万年之外に、剰へ賜ひ寂光安堵之解状を遂げん即身成仏之素壊を事、偏に謗法対治正法建立可き有る之者也、△西●はにしのゑびす也、一方を挙げて摂す余の三方を其の上西漸仏法なれば東国より高祖の向ひ下ふ方を挙げ下へり、△兼て知る之れをとは一住今日正嘉の大地震を兼て知る也、底心は聖人知るが三世を知る之れを也、約せ在世に者於末法中於後末法世と知り下ふ、約せ久遠下種に者本未有善の悪人極悪謗法の国と兼て知り下ふ也、日本国一切衆生○無明を起す是れが始め也等(云云)、此の状の秘伝なるべし、△論文とは安国論也、惣●三度の奏聞と申すは文応元年に一度安国論を挙げ御申あり、此の申状を文永五年に御上げ有つて勘文符合の義を重ねて奏し玉へば二度也、文永八年に亦六の申状に安国論を副へて上げ下ふ三度也、初の伊豆の御難も此の論の故也、文永八年之頚の座佐渡の流罪此の論の故也、誠に高祖の御命にかへ下ふ御抄なれば為●は宗旨と可き奉る付け信を事也、去れば興上は日蓮聖人の勘文関東三代に被れ抑含め候畢ぬ共、或は又師匠入滅すと申せ共、其の遺状候也、立正安国論是れ也、私にても不候は三代に披露候(云云)社参の誡め謗法供養の誡め子細に付て波木井の弥六殿への御状にも如く此く書れたり。△為君とは国王並に将軍等也爰では差し当ては将軍家也、△為国の日本也並に南●也、△為神のとは広く云へば日本の諸神別しては鎮守天照八幡也、△為仏のとは広く云へば三世十方の諸仏也、別しては本門本仏也、皆是れ善神聖人還住あるべき為也、今は法味に飢え玉ふと云ふ義也。△内奏とは指し当ては、左衞門殿可し被る経内奏をと云ふ義也、伝奏書と云ふは左衛門入道殿と計り有てへ共人々御中共御宿所共御近習中共不る書か也、是れは秘事也、伝奏書の有無は以て之れを可き知る也、文躰にかえる処可し有る之れ、謂く爰では為神の為仏の宿屋左衛門の入道殿可しと被る経内奏を云ふ義也、委細之旨已下は左衛門に対する詞也、余処ならば此の旨可く預る御披露に候恐々謹言、宿屋の左衛門尉殿などゝ書くべし此の旨左衛門尉殿可く預る御披露に候と云ふ義也、去る間、へと書いて御宿所と書けば非伝奏書に是れ所礼の一大事の秘説也、書礼習ふ事千ケ条計り有り之れ其の中の秘事の内也、此の申状略なる間対句帯句等一処も無し之れ、従り元大聖の御作文なれば文言雖も少しと心広博也、引き散●雖も書くと文言定心也、芥子を須弥になし大海を一呑したる如き御文躰、兎角申せば中々可き蒙る御罸を間、神妙々々々々冥感●り々々、但為に愚者の文章の辻合せ計り卒度伺ひ申す処也、於て御法門等に者可き任す信智者也。文永八年御申状。
一此の御状も目安也、天庭の奏聞にあらず、両度雖訴へ玉ふと無き許容間、安国論を挙げ玉ふ時此の状副文也、爰に内々良観房等企て讒言を折節披露の間、●て此の状の訴訟に則日十二日臨み夜中に頚の座になをり給ふ此の謂也、其の侭佐渡流罪の御難也是れ也、為て末弟と流し涙を銘する肝に処也、末法為に我れ等衆生の捧げ訴状を玉ふに却て流罪死罪に被れ行は給ふ処を御恩徳共不奉ら思ひ等閑に打ち過き申す事誠に不信無志の故也、真実に知り御恩を至誠信の涙をながさざる事、嗚呼不る至ら信心に歟、宿習のつ孱き歟、久世舞を聞いては泪をこぼし、猿楽を見ては心うかるゝといへ共、不信の心は石よりも堅く、信心の節目は糸よりもほそし、慙愧々々。
入文、標釈結の三あり、一昨日と云ふより為め救衆生を也と云ふ迄は標也、爰に日蓮はと云ふより未た尽さ微志を耳と云ふ迄は釈也、抑貴殿と云ふより下は結也、五の申状は首の一行計り標に取り今も如く其のなるべきに何そ二行に亘る哉と云ふに、五の申状は文章刊略なる間抑と云ふ詞より引きつゞけて文章不る切れ故に釈の段とす、今は先つ惣躰仏法の模様を挙げ下ふ也故に標とす可し見合す之れを、△一昨日とは九月十日左衛門の尉に対談●御法門を被たり仰せ、△悦入候、悦とは目安には首に悦言を書く故也、入は等輩の詞也至つて非す賞翫に、候と云ふ学目安の法度なる間一字有り之れ、五六の申状共に一通に二とは無き之れ也置き処定る也、若し有ら所用者二はゆるす也、天奏の申状に候と云ふ字不る書か也、此の状本来将軍家の目安也と云へ共興上大裏へ御奏聞也、然る間天奏の状共云つて不苦ら、分別する時は四通は天奏五六二通は将軍への目安(云云)、惣しては何も申状と云つて不苦ら仮令公家への申状不同可き有る之れ也、後には興上公家へ奏聞有る之上は無く異論一篇に不る可ら執す者歟、仰と云ふ字目安などに別行に書く也、今時分の平生の状には引きつゞけて書く也。△人生とは今世也後世とは後生也、一切の仏法には書状口上共に弘通を説くには必す五段四悉の心有り之れ一の申状に書く之れを中の四通には略●之れを影略互顕す、此の御状にも先つ標の一段に可し有る其の得心、首の悦入と也世界也歓喜世界也、人之の在る世にとは隔異世界也、思ふとは後世を為人生善也、仏は第一義悉檀也、出世は世間に対すれば対治悉檀也、又五段を云ふ時人と云ひ衆生とあるは機也、救仏教のあみなれば教也、出世は時也、在世後世は国也、思と云ひ為とあるは教法流布也、釈の段に三国昌世皈関東不思吾国思国之志等あるは世界也焉・之志国思等とある為人生善也、邪途邪法邪教等とあるは対治破悪也、一乗と云ひ出離大要妙法蓮華経諸仏本意等とあるは第一義入理也、五段を云はゞ開法門一乗妙法蓮華経大要等は教也、人貴土風等は機也、成此丘方今世日蓮得生等は時也、吾国思国等は国也、三国繁昌弘法華等は教法流布也、結の段には天下国中安国世界也為忠為孝為一切衆生の為人悉檀也、退く異賊は対治悉檀也不申さ之これ為仏為神第一義悉檀也、五段を云はば不は申さ之れを教也良材一切衆生は機也当時は時也天下国中安国は国也廻し賢慮を所は言上する教法流布也、△仏之○仏法在世は世間也、△爰には末法の主師親こゝに也、△自成此丘とは此の御抄の一大事の相伝也可し約す口伝に、みずからと云ふ事如何と云ふに、一住云ふに之れを道善坊の弟子と成り玉ふは方便権教のやすらひ其の上在因必籍の分也、師保果満の後は学する大乗を者は雖も有りと肉眼名て為す仏眼と、或は又涅槃経には以ての知るを法を故に名け大法師と、以て知るを時を故に名け大法師と、説くか中道を故に名く大法師と等と云つて、爾前にしては何も因位の俗衆にて非果位の真諦に正法の持者は女人即男肉眼即仏眼也、爰を以て自ら正法の此丘となると云ふ義也再住は自解仏乗の御事也、於て之れに脱仏の自解仏乗熟益天台の自解仏乗下種の導師の自解仏乗有り之れ、下種の導師末法高祖の自解仏乗に三度の自解仏乗、四度の自解仏乗と云ふ事有り之れ、秘伝なれば不書か之れを、凡自此丘の自の字経には自我得仏来自従是来毎自作是念等也、解釈には自本地○住の自解仏乗本時自行等也、先つ主師親を習ふに付いて在世滅後の不同有り之れ、於て在世に迹本両門の主師親有り之れ、今此三界唯我一人其中衆生は迹門の主師親也、文在迹門義在本門密表寿量の時取て之を依文とし本門の師主親を顕はす也、自我得仏来我此土安穏我亦為世父は本門の師主親也、我実成仏譬如良医同し之に是れ文の上の寿量品、依文判義共在と本門に遊ばす筋目也、於て此の上に文の底の寿量品過去の自我偈と遊ばす処の主師親有り之れ、謂く迹門は熟益の主師親文上の寿量品は本門脱益の主師親文の底の寿量品過去の自我偈は本門下種の主師親也、以て自我偈を為し依文と末法の高祖を以て為す判義真実の依文判義は高祖の御定判是れ也、謂く此の御抄に日蓮自成此丘と遊ばす師の徳也日蓮得○吾国と遊はすは主の徳日蓮忝○志とは親の徳也、三処に日蓮と遊ばす是れ下種主師親の依文判義也、此の重を指して所々に文の底の寿量品過去の自我偈と遊ばす也、寿量品の長行過ぎて申状をよみ中にも此の状の次に自我偈を奉り読み題目に結する事深き有り子細追て可し聞く、去れば法蓮抄には毎朝読誦せらるゝ自我偈の功徳は唯仏与仏乃能究尽なるべし夫れ法華経は一代聖経の骨髄也、自我偈は廿八品の魂魄也、三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩は自我偈を眼目とすと(云云)、菩薩とは本因妙を指しし眼目と者信智の事也、下種は菩薩地より初まる也、次き下に過去に法華経の自我偈を聴聞●ありしに、人々信心心弱●三五の塵点を経と(云云)、過去の法華経と者題目也過去の自我偈と者本尊也、去れば次下にされば十方三世の諸仏は自我偈を師として仏と成り下ふ世間の人の父母のごとし、今此の法華経を持つ人は諸仏の命を継く人也(云云)、十方と者西方、東方等の多宝大日弥蛇薬師等也、三世と者五百塵点の釈迦三千塵点の大通其の外日月浄明雲雷音王乃至今日の釈迦未来の慈氏如来、辟支仏等也、自我偈と者過去の自我偈也過去の自我偈と者名字本因妙本地難思境智の自我得仏来自成此丘と遊ばす処の下種の主師親の事也、今法華経を持つとは末法本門の直機也是れ即過去の末法也、流通と云ふも過去の流通也、過去に宗旨を立つとは是れ也。
如し初心成仏抄等の、謗法の人は諸仏の命を断つ人也、如し譬喩品の、持つ人は仏の命を継く也継と者非余処に、日本国の一切衆生即身成仏する自身の事也、余処の仏の命を継くにあらず、如く此くの成仏すべき身を謗法に依つて堕地獄するは仏の命を断つに非哉、可し思ふ之れを大事の法門也、如く此くの種脱の本尊慥に遊ばし分け下ふ処を他門の方々不知ら深意ら過時脱形の釈迦多宝を本尊とし本門下種の本仏を不る知事迷惑の至り不及ば沙汰に、剰へ正信正智の富士門徒を嘲弄する事鼻かけ猿の鼻ある猿を咲ひ餓鬼の眼に水を火と見る類也、縦ひ又雖当門之人と浅学不信之輩任て愚見に不可ら知る深意の御法門を若し然ら者不可ら至る当家之本意に者歟。△旁とは方の字の心にあらず旁以と云ふ意也諸毎の義也、言は法と時と機と付属と国と流布と万事に付いて末法は法華本門の妙法蓮華経が出離の大要ぞと云ふ意也、△諸仏とは三世十方の諸仏也、△早とは速疾頓悟也自解仏乗を指す也、△出離とは可し有る習ひ出離生死の二意の一面等可し思ふ之れを、△大要とは大は大乗要は題目也故に妙法蓮華経是也(云云)、実と云ふ字は指す仏果真実得益を也当躰蓮華仏也於て此重に有り習ひ、脱の法華経在世の本門は末法の出離の大要にあらず、本尊は自解仏乗の高祖法華は要法の題目也、ほうろく千につち一の御法門也、種脱相対可し思ふ之れを、安国論は表に権実裏は本迹也、此の副状には末法の下種の法躰と法主の様を遊ばし分る也、此の一句一大事の御法門也、五の申状の結の段四の申状の釈の段三の申状の標の段二の申状の釈の段一の申状の釈の段等に種脱相対の法門有り之れ、準●之れに可き奉る付け信を也、実と者下の一実也本因妙の諸法実相也可し思ふ之れを、△一乗○昌の対句也一乗の々は平声也三国の々は他声也崇重の々は他声也かさなると云ふ時は平也繁昌は平也、一乗崇重とは法華崇重也、三国繁昌とは釈迦は於てた天竺に正直捨方便●王城の鬼門に立て道場を号す霊鷲山と、天台は於て唐土に破し南三北七を王城の鬼門に立て道場を号すと天台山と於て日本に伝教責め南都の六宗を王城の鬼門に立て戒壇を号す叡山と、皆是れ熟脱の法華を弘め玉へり爰を三国の繁昌と云ふ也、△眼泉とは眼前の義也本語にも有り之れ、爰には三国流伝を云はん為に流と云ふ字を置き流と云ふ字の縁語に泉と云ふ字を置き玉へり、△疑網とは、うたがひのあみと読む妄見網中の義也、網の字まとはる共訓す義は如し面の、泉流と云ふ字より水也の具なればあみと云ふ字を引き出し玉へり、△専○路○途とは正路は他也邪途は平也正路は正法の法華本門也邪途は謗法の爾前迹門也、△聖人とは仏菩薩也、△鬼神○とは諸天善神也並に日本の諸神也捨国とは他声也成す嗔を々は平声也、△七難○閑とは難は平海は他也起は他閑は平也。△方今とは、まさにいまと読む余所にはたしかに共訓む也、△世○東とは安徳天王以後王法衰へて諸候はからひ也、野馬臺に天命在りと三公に云ふ是れ也、謂く頼朝頼家実朝を指す也、頼朝已前は国々に定め国司を、従り王城天下治めらるゝ也、然も有れは朝敵国に者臨み其の時に賜ふ将軍の号を伐つ之れを静謐すれば将軍号を大裏へかゑし申す也田村の将軍等是れ也、従り頼朝代々相続●六十六州置き守護を将軍号を相継し惣追捕使と成る也、殊に承久の乱は北条の太夫義時傾け王城を後鳥羽院を隠岐国へ流し奉つて後、尚以て天下皆関東の進退也時宗は義時の四代の後胤也、皈るは従り京都敬の義也、△貴土風とは関東土地の風俗を貴重するの義也、従り公家武家をば地下と云ふ也、職原抄等に地下の諸大夫とあるは武家の事也公家を天上と云ふ可し思ふ之れを、底心は謗法興盛故世間も下尅上して天が地を敬ふ意也、△就中とは取分る詞也、△得生於此の土とは不滅の上の生也主の徳也主には今此三界我此土安穏と(云云)、得と者自我得の々也産湯相承可し思ふ之れを此界虚空中住此土益遍常住の浄土也可し思ふ之れを、一住は吾国は此の国が高祖御出生の土なれば也、再住は日蓮当帝の父母と或は一切衆生の主也(云云)、天台は此土益遍者以縁深広(云云)非人の国に高祖の御国也、在世は一住梵天王の娑婆也再住は釈迦本主也今此三界(云云)、末法も以て之れを可し知る之れを、深広の々の字南●に亘る詞也、日本に不る可ら限る也。△仍造立○時とは造はつくる也論はかゝる詞也作と云ふは造より劣る也常の抄などを云ふ也融通する事も可し有る之れ、再明寺殿の時奏聞す様を挙げ玉ふ也故に畢ぬ(云云)、△近年とは文永五年の蒙古の牒状を指す也。
△犬●はゑびす也いぬに此ぶる也夷敵同し之れに、△乱す浪をは浪をけたてゝよせくる共云へり、又らうぜきなるを云ふ也、狼藉を浪迹共書く也其の義也、唐朝にてはゑびすに向ふ将軍を伏波将軍(共)云ふ也、犬●の●は平也夷敵の々は他也浪は平也国は他也、△近日とは文永八年其の外災難其の上蒙古可き襲来す唱へ有る之れ故に近日符合と(云云)、△彼れとは世間の例なる故に彼れと置き玉ふ此れ仏法の為の先例也、太公とは字は呂殷の代の人也、惣●代々に名を替えて出る也、周の老子、越の范●漢の黄石公蕭何或は陶朱公或は河上公等皆是れ一躰の異名也、殷の紂王無道也、避けて之れを隠れ●渓に釣て得大魚を々腹の中に有り玉●其銘に曰く殷将に亡びんと周可し興る呂尚可し相たる矣、或は又尚書に姫受け命を呂佐く之れを報在●斉に有り之れ、はけいは水の名也太公は姓は姜名は子牙冀州の人也、依て之れに出で矣渓に渭水に釣す以て直針を離るる水を一寸或は三寸(云云)、爰に文王名は昌都より西の諸侯なる間西伯と云ふ、伯は日本にてをやかたと云ふ類也、為とは田を史編と云ふ者被り占を卜を布て曰く兆得と公侯を(云云)、然る間田りす渭腸に太公ちがやの上に座りて漁するを見て有り問答卒に興に載せて皈り立てて為し師と築き壇を崇む之れを、而に殷の紂王無道に●忘る国政を以て好色を為す楽と、妲己と云ふ美人を愛●万事彼が言にまかす国の衰をも不知ら、造り九重之薹を以て酒を湛へ池に以て糟を築き山を、集め国中の少き男女を裸にく令む行せ陰陽交会を、頭をつなぐ事牛のごとし、馳せ入り糟山酒池に没溺●死す令む妲己を●笑は、妲己登り樓に二の年少の早朝渡るを河を見て紂に謂つて曰くさきに渡る者は髄満て寒を堪忍す少●生る子也、あとに渡る水を者は髄少●不耐え寒に老て生る子也斫つて●を看るに如し其の言の、又懐妊したる女樹下に息ひ立ち行を見て曰く腹中の子は可し男子なる、故如何先に挙ぐ左足を、王試に割るに腹を是れ男子也、又無●故皷を集む群臣を諸侯驚集為異、紂曰く□欲す令めんと妲己を●笑は、爰に周の文王名は昌為り西伯と在り岐山の下に、徳化す人民を百姓皈す之れに、三分し天下を有つ其の二つ、文王崩●子の武王名は発為る西伯と、此干箕子是れ紂の庶兄也、●乱無道を見て此干諌む之れを、妲己悪み之れを謂て紂に曰く妾聞く上聖の人の心に有り九孔々に有り九毛、中聖は七孔七毛、下聖は五孔五毛、如き此干の是れ中聖、陛下不は信せ●り心を看よ之れを、用ひ其の言を割く心を果●有り七孔七毛、此干死す箕子微子懼れ罪を投す周に、是を尚書に●き朝渉之●を、割る賢人之心を矣、太公謂て武王に曰く紂の無道尚有て三賢人在り左右に、今此干被れ殺さ、箕子微子来り投す紂可し伐つ矣、武王用ひ太公之言を遂に興●兵を行き至る孟津に、八百諸候不●期自ら来り相会●入り朝歌に捉へ得て紂を殺す之れを、捉得て妲己を付与●召公に令む殺さ、召公見て其の姿容端正に●一笑百媚なるを不忍び殺すに之れを留て経一宿を、太公謂て召公に曰く紂の亡し国を喪ふ家を皆由る此の女に、不んは殺さ之れを更に待たん何時を、乃以て碓を●す乃を、即変●為る九尾の狐狸と、紂為て行するを此の無道を武王伐ち之れを化す天下を四夷悉く来て臣伏す、是れ即文王の太公を礼●為す師傳とに依て太公入る殷国に也、文王と云ふは武王の天下を取て後のをくり名也、太公は後に斉王と成る也、如き魚の銘の三注七書等に懇也、可し見る之れを粗記す之れを、殷の字はさかんなりと読む盛の字義同し之れに、大也と云ふ字訓も有り之れ、△張良之○誡とは漢高祖先つ亡し奉を後滅し項羽を天下をたもつ事偏に張良か計の故也、秦の始皇奢を好みて無道也、胡と与との秦堺に長城と云ふ所に築き城を七百余里、於て都に阿房宮を作る東西は五百歩南北は五十丈、上には座し万人を下には建つ五丈の旗を、治三十七年してあまりの栄華に求め不死の薬を蓬莱嶋に渉らんとて渤海に乏べ船を沙丘と云ふ所にて当て大魚の尾に崩し禅る位を於嫡子扶蘇に、扶蘇有り武勇、依て之れに大臣趙高除き扶蘇を二男胡亥を為し帝と二世王と云ふ、扶蘇殺子谷と云ふ所にて自殺す、其の後趙高自ら欲し為んと王と以て馬を号す鹿と、二世曰ふ馬と群臣後は馬を鹿と云ふ、其の時二世咸陽宮の望夷宮にあるを閻楽と云ふ者に、千余人の兵を指し副へ責む之れを、二世曰く為らん諸侯と不んば然ら為らん黔首と、不許さ於て茲に二世自殺す、後二世の子、子嬰誅し趙高を治する天下を四十六日、爰に楚の項羽漢の高祖同心●破る秦を、其の時は高祖を沛公と云ふ豊と云ふ所より出で玉へり、項羽は四十万騎、高祖は十万騎也、兄弟の契約をし打て出づ、子嬰●道と云ふ所に来つて、白馬素車にのり頚に白き組をかけ降参す大唐の降人の法也、打入る時、項羽多勢の頼を以て約束●曰く最初に打入りたらんを以て為ん王と、項羽は新豊の鴻門より入る打ちあと也、高祖は函谷に打ち入てさきに王城を乗り取り関中の覇上に陣を取る、項羽約束をする事も我れさきなるべしと思ふ処に、あとなれば不及ば力則変●色を中あしくなり、五年の間七十二度の合戦あり、千字文には五年とあり、胡曽詩には八年と有り之れ首尾可し案ず、項羽の執見范増曰く令人を●望ま沛公を為り竜文五彩天子の気色あり急に可し撃つ之れを(云云)、羽の季父項伯、張良に此の由を告く、張良告ぐ沛公に、沛公不る背か徳に由以て范増を言ふ羽に、明日沛公至り鴻門に謝す羽に、々留の沛公を飲す、范増目●項王に為す伐んと沛公を、項荘抜て劔を起て舞ひ為す殺んと沛公を、項伯亦抜て劍を以て身を翼蔽ぬ沛公を、然る処樊噌聞き之れを直に入る、須臾に●沛公如て厠に遁れ去る、其の後敵味方となつて漢の西を為しは漢と漢の高祖の云ふ、漢の東を羽領●楚とす、後には垓下と云ふ処に羽をかこみたり、或る夜項王飲み帳中に美人虞姫と云を常に幸す馬の名を曰ふ騅と騎れり此れに、馬不進ま、項王是を虞姫に語つて自ら為て詩を曰く力抜き山を兮気蓋ふ世を時不利ら兮、騅不逝か々々々努力●よ兮々々可奈何、虞や兮々々や可奈若を何ん矣、美人聞き之れを並に左右泣く●数行也、数行虞氏の涙とは是れ也、或る時城の四面に楚の声有り之れ、羽思はくさては我か人衆高祖に属したりと得心、纔に八百余人、遁れて北に走る、漢兵追ひ之れを至る陰陵に、羽勢廿八騎になる、大沢の中にをい入れらる、漢兵四五千也、多年の間に七十一度は羽勝ち是れは七十二度目也、羽云く吾報く兵を八才矣、自ら七十余戦、所当る者は破り所の撃つ者は服す、今困しむ於此に、此れ天亡す我れを非す戦の罪に(云云)東方渡る鳥江を但一人にて北げ下ふ、羽か本の郎従高祖に従ひしが追ひ懸け奉り願くは君と倶に自害せん、羽不可ら然ると云つて自刎つ遺言●曰く生ては四天の主也、死しては十万斤の金也とて自ら頸をきり与ふ郎従に、郎従捧く高祖に、々々賜ふ十万金を、高祖も敵とは云ひながら兄弟仁義の契約不す浅らとて、落涙し自ら葬送し三十日の間断つ水食を(云云)、項羽の四人の大臣は項籍項伯項荘范増也、范増は後見也委細は如し項羽記の、高祖四人の大臣は樊噌張良陣平韓信也、高祖の時十八侯有り之れ謂く蕭何曽参張●周勃樊噌●商夏候嬰爰●灌嬰王陵●●王吸陣武伝寛薛欧周昌丁公蟲達也、中にも張良は武略の達者也、父は平皆と云ふ也韓の相也、張良字は子房と云ふ也少き時下●と云ふ所の●上にて老人に値へり、堕す履を於●下に孺子下つて取れ履を良欲す●んと之れを以て其の老たるを跪て進む、父一里計り過きて復回つて云く五日の明期す之れを父先来る、父云く後れ何去る、後五日早会鶏鳴、復父云ふ後る何也、後五日夜半に住く父後れて来る、一篇の書を伝授●云く読む是れを則は為らん王者の師と、皈る時に云く十三年●孺子見る済北穀城山下に黄石は我ならん也(云云)、依て之れに黄石公と云ふ、是即太公か一巻の書、今の三略四十二巻のまきものと云ふも此の書の流れ也、張良得之れを終に為る漢王の師読と、古語に云く漢高三尺の劔、座●制す諸侯を張良一巻の書立ろに登る師傳矣爰を以て良○誡と(云云)礼は他也誡は平也 安国論の見聞に秦項が世に同しと云ふ処を略●不る書か間、爰に項羽の事をも書き加る也可き見合す也、入る殷国に也と云ふに也と云ふ字書く事此の一代の間の悉くをこむる間也と云ふ字を書く也、其の子細を一々注せば者の字を可き書く子細を不●云は一代の事義をこむる間也と云ふ字を用ひ下ふ、此の類広く不ん達せ文章に者不る可ら知る之れを歟、得賞とは張良は大臣となり、四天王の中に列り俸禄任せ心に、太公は斉王となる事也、△帷(かたびらとばり)張(かたびらとばりたれもの)きんへん書いてよし、りつしんべんに不可ら書く、戸帳の々の字を立心べんに書いたるを見て或人云く此の施主定て可し有る愁ひ(云云)、果●如し其の言の、故を問へば答て曰く立心篇に書けばナゲク共ウレウ共読む也、門戸になげきうれい有る事を祈る願主なれば可し有る愁ひ(云云)、帷の字は立心篇なれば、おもんみれば共これ共よむ也、兵書などには帷幄の中と書いたるも有り之れ中は平也、外は他也、△未萌とはいまだ、きざゝずと訓すびまう共よむ也未来を知る義也、△六聖とは聖臣大臣忠臣智臣貞臣直臣也、言は聖は知る三世を大は在り寛宥忠は有り節義智は弁す是非を貞は無し二心直は不る●曲也、六聖のうらに六邪あり謂く愚臣諛臣奸臣諛臣賊臣亡臣也、推て可き知る也、世間も表し六聖を公方には六人の奉行、大夫の家には六人の老者あり、或老名(共)云ふ也、
△弘法華○使者也とは、諸仏と者惣じては三世十方の仏殊に塔中の二仏並に分身等也、使と者文相は如来所遣行○事現証は結要付属是也、釈には応弘我法等(云云)我法者法華本門妙法上行付属也於て此上に重々の習あり、躰具十界の久遠の本尊名字本因の釈迦の使として現し人界応同之姿を末法濁悪の世に出で下ふ処の高祖聖人の御事也、此の重深く可し習ふ之れを、使者の二字ある事は聖臣の対なれば也、やわらげてつかいとよむべき也、△而日蓮とは三徳の中の親の徳也、而るにと云ふ詞は上に広く子細を宣べて下に事を云ひはたす詞也、三徳を結び給ふ間而るにと置き給ふ也、最初は爰に日蓮次は就中日蓮今は而に日蓮(云云)可し思ふ之れを文章の躰始中終の傍句の置き様也、△忝とは広韻に忝は他●の切辱る也矣、毛韻に忝は他点の切辱也矣、かたじけなくもと訓●はづる義也、言は日蓮一切衆生の主師親と名乗る事の辱ち入りたれ共、経文如く此のなる上は主師親の志を得たりと云ふ義也、忝と云ふ詞を俗に不敏なる義に取なすは非也。△鷲嶺とは霊鷲山説法華の道場を挙げ下ふ、鶴林は抜堤河沙羅双樹の下涅槃経の説所也、△開文とは何の文ぞ哉、此の状は文章の面に不顕れ可しと探る者此の経文安国論に有り之れ、此の申状は安国論の副状なる間譲り彼こにこゝには顕し玉はずして開くと文を計り遊ばしたり、安国論の頑愚段鳩化の段等に悉く涅槃経法華の両経の明文有る也、結し給ふ時は法華涅槃の経教は一代五時の肝心也○皈仰(云云)、或は凡そ如き法華経の○如涅槃経○施を等(云云)、其の経文如し彼の論の、△鵝王とは鵝は鵝●鷲同字也かもと訓す少を曰ひ鴨と大を曰ふ鵝とつねのかもにはあらず雁に似るとり也、眼銭に似たり依て之れに銭の異名を鵞目鵝眼鳥目などと云ふ也、眼に利根の相有り之れ、唐土に浄影寺と云ふ寺に恵遠と云ふ●養ふ鵞を、或時入る京に知て宿房を飛ひ来り毎に入る講堂に、講経の間は聴聞●語れば他事を鳴噪●去る、如き此くの六年後に不●入ら而廿日計り有り之れ恵遠死す、如き此利根の鳥也、或は又於て爰元に投れは銭を者口にくわえて出つ替て餅に食する之れを也、今云ふ処の鵞王と者仏の異名也、彼鵞眼を以て仏眼に此す知恵の眼也、王は法王の義也、慈父報身の恵命を云ふ也、△烏瑟とは鳥はからす、瑟はひくもの也琴の類也、爰にては仏の三十二相の第一の相をを云ふ也、謂く烏瑟膩砂無見相と云ふ是れは仏螺髪形也、其の色烏の羽の如くして其のなり瑟ににたる歟、あぶらづくいさごの如く人不見之を依て之れに無見頂相と云ふ也、梵天も頂を不と見云て色界初禅の梵天も不る見如来の頂を也、仏の無量無辺の大悲にかたどる悲母法身の徳を表る也、然る間我れ等か慈父悲母釈迦仏の御志は於て如来滅後に責●謗法を建立正法をせしめんとの法華涅槃の未来記也、其の時の主師親は日蓮ぞと申す御心也、底心は任せて法華涅槃の経教にみれば、末代の鵞王鳥瑟は日蓮ぞと云ふ御心也、△志と者大慈大悲の御志也、日蓮が慈悲広大と(云云)、覚と者自解仏乗也、志と申すは檀王の千歳給仕喜見の多年焼身雪山の投身楽法の剥皮等は自利自徳の一分の志也、抑本因久成の世雄分け入り末法火●之昿野に率い理即但し妄の雛を寂光浄利の雲の上にのぼせ下ふ処の御志誠に以て●し尽くし、人の親の心は闇にあらね共、子を思ふ道に迷ひける哉、近代今川了俊の老●人の時の歌に子を思ふつるの毛ころも寒きよははふきかねつゝねをのみぞ鳴く、此の類を志と云也、さても●●高祖度々の大難、頚の座頭の疵等是れ何事ぞ哉、末法の我れ等衆生を不敏にをぼしめす心のやみに非ず哉、柔和忍辱の衣をはぶき兼ね給ふに非す耶、可き奉る付け信を処也、惣●法華涅槃慈父悲母等に付て、約し在世滅後に付属に約し種熟脱に摂折の化儀法躰等の習ひ色々也、委くは開目抄の下巻安国論の十四の段の頑愚の下十八段の鳩化の段等可き有る拝見者也、文は平志は他也、△剰とはあまして也詩には剰て見る金陵一日の華とよむ也、爰ではあまつさへと訓める也、△将来とはまさにきたるべしと訓める也古住今来を指す也、文選の注に将来は謂く自り古至る今に矣。△先哲とは正像二時の論師人師也遠くは在世にも可き亘る也、不と及ば被は遊ば卑下の御詞也、或は一閻○堤之内に肩を并ぶるものあるべからず、或は慈悲○懐す等(云云)、其の上弥勒尚闇し何況んや下地をや(云云)、本化の上首に及ぶ処の論師不可ら有る之れ何に況んや本地難思ふ本化可し思ふ之れを、勝る万人に曰ふ哲と也、△後人とは未来也一住は末法の未来也再住は後仏の慈氏如来等也、出過三世可し思ふ之れを、哲は他也人平也。△知法とは聖人知る三世を知也、法と者下種の要法をひろめ爾前迹門の謗法を対治する時機の法躰をしり下ふ也、諸宗は無智也故に執する邪法悪法に也、△思国とは別●は日本惣●は南州也、謗法を以て破る国を諸宗は国を不る思は也、△懐く大忠をとは、いだくと云ふ時は立心篇也、忠をいだくと云ふ詞の由来は唐土楚国に下和と云ふ賢人能く玉を見知る、南楚の地刑山の崑崗の谷と云ふ所にて取り璞を、楚王に三代の間捧く之れを、初めは石也とて左の足を●り被放た楚山に次の代に亦さゝげたり石也とて右の足を●り被る放た、三代目に捧く之れを被る琢か名玉也、後には号し和氏之壁と或は夜光の玉、或は連城の玉又は照車の玉等と云ふ也、三代の王号に有り異説広く可き見合す也、取要抄に予智不越え先賢に設ひ雖も引くと経文を誰人か信せん之れを下和が●泣呉子胥が悲傷(云云)此れ古事也、然るに下和以て大忠を懐き玉を捧く之れを還て被て●ら足ら泣き居たり、是れ全く非悲むに疵を人皆愚闇にして不る知ら名玉を事を歎く也、されば千字文の注に抱きて玉璞を泣く於荊山之下に矣、毛詩に云く蒔く蘭を莫れ当る門に、懐く玉を莫れ向ふ楚に矣、言門庭には蘭をまく共不可ら生る、楚人不るは知ら却て●る足を間向ふなと云ふ也、命にかへて懐く之れを大忠也故に懐くと大忠を云ふ也、高祖衆生成仏の如意珠の妙法の玉を懐て三度迄さゝげ下へ共知る人なれば却て流罪死罪に相ひ給ふ間本門三大秘法の本望を達し不る給は也、△微望とは微は爰にてはひそかにと云ふ義也くわしともよむ也、三大秘法の建立ののぞみ也、所詮爾前迹門の謗法対治なければ也、身にかへ命にかへ給ふ処の無上道の下種の本法を不る達せ也、所詮一天四海広宣流布の御望み也、△不快とはこゝろよからず共よろこびなし共訓む也非不会の義に、△条と云ふ字、爰ではよまず入れ条とよめば過去の点になる入る条とよめばきゝわろし、然る間不る読ま也条の字を不んば置か上下の文章はなるゝ間置いて而も不る読ま也、△難治の次第とは謗法の諸宗を御崇敬の故り●対治し也、是れが仏法破滅国土衰乱の愁之次第と云ふ意は謗法対治正法建立の御沙汰の次第也、△伏惟とは発語也頭を傾け思惟する義也目にみる義に非す、△秦山とは唐の五岳山の中の第一の高山也、爰では高大山迄也、△地厚とは天は高く地は厚し今是を定判有る事は面は天の高を不窮め地の厚を不る知ら意也卑下の御詞也、底心は末法の慈父高天濁世の悲母厚地のきはまりなき処の無始色○妙智の慈父悲母にてまします事を名乗り給也、開目抄に天地高厚の二字等可し思ふ之れを、△不知とは一住は卑下の御詞也再住は天地にきわめあるは麁境麁智也、妙境妙智を本地難思の不思議の天地にして無際限の処を不と知ら云ふ也、然る間卑下の底心に有る御本懐之文章也、日本国の一切衆生殊に将軍家末法相応の慈父の高山悲母の厚地を不る知ら事を歎き下ふ御所存也、当門の本意は本因本果本尊と与と御影可し思ふ之れを、天高は平也地厚は他也、△仍とは爰では、また共なほ共よまする也、かみに不や思は吾か国を仍て●立○論とあるは、ちなむ共よる共よむ也、吾か国を思ふによる故に造て立正安国論を進上申すと云ふ義也、爰は文応元年に挙げ下ふ論を重て文永八年にまた挙げ下ふ故にまた共よむ也義可し案す之れを文応年中の論同本也、△九年一毛とは本説不慥ら師伝には九牛が一牛の一毛と云ふ義也(云云)、言は十牛を九つ除て其の一を取て又一牛の一毛一すぢほどゝ云ふ義也、百分千分百千万億分などゝ云ふ類也、其の故如何と云ふに勘載所文と者安国論の事也、彼の論には法華経とも法華宗とも題目共法華経の持者共無し之れ但謗法正法の起尽計り也余経の文同意に雖有りと引証、別●依て法華経に宗旨を立ると云ふ事は無し之れ、惣●は権実相対別しては念仏所対也何に況んや本迹をや何に況んや種脱をや、底心には雖も有りと其の意顕露に高祖の御本意無し之れ爰を以て九牛一毛と遊ばす也、△未だ尽さ微志をとは微と者下種本因妙の微妙深遠の大法也、幽玄深奥共微妙深遠共微妙法共云ふ是れ也、三大秘法の法門御修行実証の重也経には説不能尽(云云)、人皆末代の本尊下種の本法を不る知ら故に御本懐をつくし玉はざる也、此の状は安国論のそへぶみ也、故に安国論種脱の法門有り之れと云ふ辻合は専ら此の状の三処の日蓮微望微志の微字也可し秘す々々、志と者在るを心に曰ひ志と謂ふを口に曰ふ詩と(云云)忝くも末法利生の御本尊大慈大悲の御志也、△耳と云ふ字は云ひ畢る詞也、或は又乗●興に置く詞也御本意を結び下ふ間乗●興に置下ふ也、△抑と云ふ字はさても●●と歎する詞也、抑と云より結の文段也、悉く上件に御法門終て今奏聞の子細を結し下ふ也、是の状は目安なる間必ず標の文段等を一々次第●結し下ふ事無し之れ、惣●法門奏状の義味を通決し下ふ也。

△貴殿とは指し当ては執見北条殿也、先代は執見と云ひ当代は管領と云ふ関東の管領をば副将軍(共)云ふ也、執事と云ふは管領の一●也、然る間今貴殿とは執見時宗也、将軍をば貴殿とはあらはすべき事緩怠也、底心は将軍也其の時は者諸沙汰世出世共に将軍は其の名計りにて執見次第也、故に当時天下の棟梁也と遊す也、△棟梁とはむねうつばり也家の肝要はむねはり也天下を家一つにして云ふ時の事也、△良材はよきつくりきと読む古語に良匠知り材を明君知る士を(云云)、番匠は長短曲直の材木を能く可き知る也、今云ふ処は日本の俗男俗女等を良材に比ぶる也、言は悪木も以て斗墨曲尺を作りなをせばよくなる也、如く其の執見将軍むねうつばりの、すぐなるやうに捨て邪法邪師を正直無上の妙法を被れ持た其の上長短曲直様々の諸宗の悪木をつくりにをして正法天下の家を安穏に被よと収め諌暁し下ふ也、△賢慮とは聖人に対する俗は賢人也愚者は不可ら聞く聖言を不可ら信す故賢をと云ふ、慮とは遠慮とて目前になき事を思案を深くめくらすを云ふ也、今は他宗謗法計り目前にして正法の本門無き之れ故をもんぱかられよと云ふ義也、△異敵とは四方賊来る也横に十方の災を退くる義也国中の謗法の故異賊可き責め来る也、此経護持あらば可き退散す也、△為世のとは世間也於て世間に三種の世間有り之れ、△為国とは一天下也別●云ふ時は為世万民也為国王位将軍等の也、△安世安国とは且く今挙げ申す処の安国論の決辞也、△為忠ととは主にかゝり、△為は孝と親にかゝる詞也、一住は国主父母の忠孝也再住は末法の主師親に忠孝たるべきと云ふ意也、其の主師親と者誰人ぞ哉可し尋ぬ之れを将軍家をすゝめ給ふ御文躰也、抑と云ふより爰迄は初の人之世○世と標の段を結し下ふ也、△是○申とは作者の所礼也全く非自専に不可ら思召す私と云ふ礼語也、△為君のとは遠は国王近は将軍家也、△為仏とは惣●は三世十方の仏別●は日本一万余の寺塔の仏陀皆魂なし、故に謗法の寺塔をあらため正法本門の寺塔となすべしと云ふ義也、約せ自立に者末法相応の本仏の御本意を達せられんと云ふ意も可し有る之れ、△為神は惣●諸天善神別●は日本の諸神也、悉く法味に飢へ下ふ間正法有ら建立者可き得威力を也、於て此の上に本化垂迹の霊神可し有る之れ、△為一切衆生の惣●は南●の一切衆生別●は日本の一切衆生也、此の上衆生法妙を広く沙汰する筋も可し有る之れ所詮正法建立の日は諸仏菩薩具騰本種して本因妙の名字の一仏と成り、諸天善神の垂迹還住して本法守護の天照八幡と顕れ妙法授戒の賢王一天護持の威をふるひ、吹く風枝を不鳴さ雨つちぐれを不る砕か時を指し下ふ也、万機一同に異口同唱の題目十界互具三千一念の信者を一切衆生と云ふ也、是れ偏にと云ふより爰迄は標の段の仏之出世○也と云ふ処を結し下ふ也、爰に近代日向国清武城と云ふ所に諸猪孫五郎と云ふ者あり、後には号す三郎左衛門と、元は他宗なりしが淋病をわづらい、為に養生の石塚法光寺の蓮臺坊と云ふ人の所に逗留の時、於て御堂に日中を聴聞申しけるが、此の状の為仏の為一切衆生のと云ふ処を聴聞申し涙を流●云く、抑も此の程者日蓮聖人の御門弟諸宗を誹謗ある事いわれなき由存し候処に色々大難に値ひ玉ふ事一切衆生の為になされける哉、さては我れ等か為に如く此の御辛労被れ成さけるを不●存せ謗り奉り御恩を忘れ申す事浅間敷き事也、於ては已後に少も退転不可ら申す急き授法可とて申す則座にて信者となり信心堅固の人也き、其の子干に今有り之れ其の時の小師は蓮臺坊日俊とて大学匠也台当両家の深智大才也、例せば大江参議定基詣で叡山に値ひ恵心に、止観明静○聞と無点に聞て大悟発明●号す寂照と、後渡唐し清涼山の開山円通大師となりし如く也、誠に天機秀発自解仏乗とは是れ可し成る、然ら者於て末代に可き希ふ歟、さても●●日我をはじめとして一日に一度づゝ●も奉ると読み、結句起し悪念を致し空目を不る奉ら信を付け事宿習の拙也、不る招か信心を故歟浅間敷し々々々、△所言上する也とは是れも天奏書状也言は所言上する也、平の左衛門尉殿、恐々謹言の意也恐々謹言は平左衛門に対する詞也、俗出共に伝秦書の状には御宿所を書せず又誰殿へ共不る書か也、余所ならば可し有る御披露などゝ書く時は、左衛門尉殿御披露と云ふ義也、故にへと書けば私の状に成る也、一天下に定る事也書礼の秘事也、日中の時は尉殿日蓮とつゞけてゑずき間、殿へ日蓮とよむ也非本義に惣●有職の書礼等、不知案内にしてあやまりなき先聖先師などの上をそしり、或は耻辱になし申す事第一の罪障也可し悲む之れを、△文永八年辛未九月十二日惣●証文になる状には年号を書く也、但し此の状将軍家へ御挙げの時は定て九月十二日と計り可し有る之れ、為に末代の已後年号を加る歟、又証文の状に年号を書く任せて道理に者奏聞の状にもあそばすべき也、是れ等は進退依り事に依り時に不定なるべし、諸御抄にも年号遊はすもあり但月日計り遊すも有る之れ也、惣●書状等につけ年号つゞけ年号の書き様口伝にあり可き見合す之れを也、△日蓮判、御判形の事は一ケの相承なれば不書き顕さ追て可し聞く、内裏伝奏の状には判はせぬもの也、然る間一二三四の状は年号月日作者をよまざる也、五六の状は目安なる間年号月日御名乗迄よみ申す也、△平左衛門とは平は氏也左衛門は官也名字は飯沼也、弘安年中に父子共に謀叛を起●被れ誅せ畢ぬ子を飯沼の判官と云ふ也、平の左衛門と云ふは例せば藤中納言平大納言或は藤右馬●或は平宰相の類也、時の人の云ひならわすをば如く此くの書く也不ん然ら者不可ら書く、又平左衛門と名につ●けてつく人も有り之れ(云云)、△殿と云ふ字は真に書く時作りに●と書いて能き也、●と書けばをくるゝと云ふ義也、謂く殿最と云はをくれさきだつ義也、乍ら去りルとロとは一つにも用る也書き分る時は此の分也、殿と云ふ字真行草又かたゞれ殿などゝ云ふ事有り之れ、仍六通共に大概記す之れを、任せ筆に廻し心を約束計り少し宛書き付け畢ぬ穴賢々々。
天文十四年乙巳四月二日始め之れを同七日に六通共に注し畢ぬ、 記者日我敬白。
右六通の申状之見聞は者天文十四乙巳四月の乱中、夜は者籠り金谷之城中に昼は者皈り妙本精舎に、戦国之時節無き定相世間成る間急き寸陰之時日を述ぶ之れを、聖教外典等在る要害に間、委細不見合せ之れを少し宛記す之れを有ら誤り者後学可き有る取捨者也、当年三月中は安国論の私記す之れを、是れ偏に今時分の学問者浅智不信に●而執し他門偏学に好み広智大才を不至ら代々先師之本意に、上代軽慢之幢高●而信心志之一分更に以て無し之れ、然る間雖為りと一言之書状深智高妙之法理大才広量の文章為に令んか知ら之れを少し宛述ぶ之れを、先聖本懐は者不申すに及ば、近代日要等之作文之所存尚●し及び之れに、此の上以て正信深智を可し被る添削せ此れを、然るに当日者本末之学文者或は不信或は無志也、適有るも智恵亦若しは邪路若しは浅学爰を以て失ひ当流之正脈を迷ふ一門之信心に、無信無行は者無益之学問也、無志無道心者の智恵更に無用也、本末仏法之奉公自他成仏之依怙は者先つ住し正信道心堅固に而閣き世間之我執を、不好ま広学多才を、専しん信智行念を拝見御抄之正義を申し其の後台家之入学も可き然る歟、然る間於て当門家に可き仰く正智正信之能化学匠を者也、為に末代之所化等の述ぶ之を是れ者草案也已後可き及ぶ清書に者也、文言法門無き●首尾可し有る之れ、殊に乱中窮屈唐瘡再発彼れ是れ以て頓作之間失念換字等可き有る取捨也仍て云ふ爾か而已。
南無妙法蓮華経日蓮大聖人並代々等
日我判

私に云く此の見聞者、天文十四年乙巳七月已来雖奉ると書写し之れを、余り依て細字成るに為め老眼の更に●く見分け候儘重而奉る書写し之れを処也、当年五十五才今雖も無益と作らん後世の因(云云)。
于時天正六年戌寅二月時正書写し之れを畢。
本乗寺善行坊日膳阿闍梨
料紙之願主伊豆の国住佐野若狭守諸願成就皆令満足無疑処也。
墨付九十三丁
房州妙本寺蔵日膳写本有誤字有脱丁雖然憾無供校正他本自加へ厳訂を施し朱点を了る。
昭和十年四月廿四日 日亨判


                         
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